マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第3主日 主教巡杖・堅信式『キリストの証人として生きる』

 本日は復活節第3主日です。新町聖マルコ教会では、主教巡杖及び堅信式がありました。堅信を受領(按手)されたのはアントニオ栁井孝幸兄です。

 新町では2年ぶりの主教巡杖及び堅信式でした。堅信式後のご本人の挨拶で「天国で両親が喜んでくれていると思います」との言葉が印象的でした。聖堂が喜びに溢れました。参列した皆さんもうれしそうでした。

 礼拝後は、旧幼稚園舎のホールで祝会(愛餐会)。主教様を囲んで交わりの時をもちました。

 本日の聖餐式の聖書箇所は、 使徒言行録3:12-19、詩編4、ヨハネの手紙一3:1-7、ルカによる福音書24:36b-48。前橋の教会は、信徒奉事者の司式による「み言葉の礼拝」でした。そこで私の説教が代読されました。その原稿を以下に記します。復活したイエス様が私たちと共に歩んでおられることを知り、キリストの受難と復活、また悔い改めを宣べ伝える「キリストの証人」として生きることができるよう祈り求めたいと思います。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 マッテア教会では、この4月から第二日曜は以前のように「み言葉の礼拝」
となりました。信徒による聖餐式の前半部分を中心とした礼拝です。信徒奉事
者による司式で、今月については福田司祭の説教代読とさせていただきました。
 
 説教の本題に入ります。本日は復活節第3主日です。本年はB年ですので、聖書日課はマルコによる福音書が中心ですが、今回はルカによる福音書24章36節以下から採られております。
 こんな話でした。
『イエス様が十字架で亡くなった3日後の夜、弟子たちは集まって「全ては終わりだ、これからどうしたらいいだろうか」と考えていたと思われます。その時にイエス様が、彼らの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』」とおっしゃいます。最初は亡霊を見ているのだと思って恐れましたが、イエス様と話し、イエス様の傷跡や魚を食べるイエス様を目撃するうちに、弟子たちは「イエス様が本当に復活した」と、実感しました。そして、イエス様は弟子たちに言いました。46節の後半から48節です。
「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。」と。
 つまり、イエス様の復活を目撃したあなたがたはメシア(キリスト)の証人なのだ、というのです。これが今日の箇所の結論でした。

 今日はこの「キリストの証人」ということにスポットを当てて考えたいと思います。
 ここの「証人」のギリシャ語原文はマルチュレスで、動詞「マルチュレオー」の名詞形です。「マルチュレオー」は「事実や出来事を確証し、証しする」の意味です。 証しする内容・対象がキリストであれば、イエス様の生涯に起こった出来事を単に「証しする」だけでなく、イエス様とは誰なのか、その本質はどこにあるのかを「証しする」ことを含んでいます。
 48節の「これらのことの証人である」の「これらのこと」とは何でしょうか? それはその前の46・47節にある通り、キリストの受難と復活、また悔い改めが宣べ伝えられることです。悔い改めとは、神に立ち帰ることです。
 神様はイエス様を通して、私たちの背きと罪を拭い去り、「立ち帰れ」と呼びかけています。神様のこの呼びかけを証しする証人として、弟子たちは遣わされていきます。本日の旧約聖書代用で読まれた使徒言行録3:19には、こうあります。ペトロが民衆に語った言葉です。
「だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」
 ここではイエス様の一番弟子のペトロが罪が拭い去られるように、つまり罪が赦されるように悔い改めるように、言い換えれば、神に立ち帰るように呼びかけています。
 そして、それは現代のキリストの弟子である私たちにも向けられています。

 私は、今日、悔い改めて神に立ち帰った一人の「キリストの証人」を思います。その方はヨセフN・Mさんです。N・Mさんは昨年のクリスマスにご自宅で洗礼を受けられました。先週の月曜、8日にI病院の緩和ケア病棟に入られ、その翌日9日に病室(個室)にお見舞いに行き、塗油をさせていただきました。中川さんの名親(教父)であるN・Sさんも一緒でした。N・Mさんは最初は目をつぶって黙っておられましたが、油を塗るときに、私が「父と子と聖霊のみ名によって、あなたに聖油を塗ります。アーメン」と言うと、私の声に続いて「父と子と聖霊のみ名によって」と言って十字を切っていました。N・Mさんは食事の前には「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と言って十字を切って祈っているとのことでした。Nさんは洗礼を受ける前の学びでも、すべてを主にゆだねる姿勢があり、悔い改めて神に立ち返る信仰をお持ちであると感じました。先日の病床訪問では、お祈りを終えて病室を出てから、傘を部屋に置き忘れたことに気がつき、私が静かに戻ると、Nさんは目をつぶり手を合わせて真剣に祈っておられました。悔い改めて神に立ち帰った姿を目撃したように思いました。ヨセフN・Mさんは私やご家族等に、キリスト者として信仰のあるべき姿勢を示された「キリストの証人」であると確信しました。

 聖書に戻ります。本日の福音書ルカによる福音書24章48節「あなたがたは、これらのことの証人である。」は、ギリシャ語原文をそのまま直訳すると「あなたがたは 証人 これらのことの。」であり、「証人になれ」という命令形でも「証人になるでしょう」という未来形でもありません。「あなたがたは、証人である。」とイエス様は弟子たちに断定しているのです。
 私たち、キリスト者も人生のあるときに主イエス・キリストに出会い、イエス様によって新たな生き方に導かれ、今、キリストの受難と復活、また悔い改めを宣べ伝える「キリストの証人」なのです。そのことを、私たちは意識することが大事であると思います。
 
 皆さん、十字架の3日後に弟子たちに姿を現した復活の主イエス様は、私たちにも出会ってくださり、今も行く道を共に歩んでくださっています。そして、弟子たちと同様に私たちも、キリストの受難と復活、また悔い改めを宣べ伝えていく「キリストの証人」として生きる使命が与えられています。
 神様の恵みや慈しみ、主イエス様の復活の素晴らしさを思い起こしながら、私たち一人一人が「キリストの証人」として生きることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン