マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第2主日 主教巡回・堅信式 『日々、聖霊を受け生きる』

 本日は復活節第2主日です。新町聖マルコ教会では、主教巡回及び堅信式がありました。新町の教会としては約10年ぶりに行われた堅信式でした。式開始の5分前の鐘が鳴ると同時に聖堂は静まり、髙橋主教様の司式・説教、福田司祭の補式により、厳粛な雰囲気で聖餐式が捧げられました。

 堅信を受領されたのはソフィア藤原京子姉です。礼拝後の主教様の挨拶の中で、主教様は姉の洗礼名ソフィアに触れ「本当の知恵(ソフィア)とは神様とつながること」と話され堅信の意味について知ることができました。

 

 本日の聖書箇所は、 ヨブ記42:1-6 とヨハネによる福音書20:19-31。私が前橋の教会の礼拝があればしたであろう説教原稿を以下に記します。復活された主が共にいてくださり、聖霊を送ってくださることを知り、日々、その聖霊を受け、復活のキリストの証人としての使命を果たせるよう祈り求めたいと思います。

   日々、聖霊を受け生きる

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 先主日は復活日(イースター)で、前橋の教会では、礼拝後に、新築なった
会館で一人ずつ近況を報告し合い、久しぶりの信徒同士の交わりの時を分かち
合うことができ、感謝な時でありました。
 そして、本日は復活節第2主日です。復活節の福音書ヨハネ福音書が継続
して朗読されます。第2主日は、A年・B年・C年とも共通で同じ箇所がとられています。ヨハネによる福音書20章19節から31節で、内容は大きく3つに分かれています。①家に閉じこもる弟子たちへのイエス様の顕現(現れること)、②トマスの疑い、③ヨハネ福音書の執筆目的です。

 今日の福音書の箇所を、まず振り返ってみましょう。
『その日、週の初め日、つまり墓が空であることが発見された日の夕方、弟子たちのいる家の2階の部屋(アパ・ルーム)に、復活したイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言って挨拶されました。この部屋は主イエス様と弟子たちが最後の晩餐をされた部屋です。イエス様は手とわき腹を見せ、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言いました。さらに、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と言いました。
 この出来事があった時には、12人の弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。帰ってきて、仲間の弟子たちからイエス様が現れたという話を聞いて、言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」と。
 そして、その日から8日が経った時、すなわち1週間後に、復活したイエス様が再び現れ、今度はトマスの前に立たれました。
 「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。」そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。
 トマスは思わず、「私の主よ、私の神よ」と言いました。
 この書物が書かれたのは、イエス様が神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエス様の名により命を受けるためです。』

 今日の福音書箇所で、イエス様が言った言葉3つと、トマスが言った言葉1つにスポットを当ててみたいと思います。
 そのイエス様の言葉は、「あなたがたに平和があるように」「聖霊を受けなさい」「信じる者になりなさい」の3つ。トマスの言葉は「私の主、私の神よ」です。

 1つずつ考えます。まず、イエス様が言った「あなたがたに平和があるように」という言葉ですが、ヘブライ語では「シャローム」と言います。ユダヤ人の日常的な挨拶「やあ、今日は」といったような意味合いをもつ言葉です。この言葉は「主の平和」と言って、聖餐式の中で私達は平和の挨拶として行っています。「シャローム」とは、戦争や争いのない状態というよりは「神が共におられる」ときの状態を意味します。
 弟子たちは主イエス様が捕らえられるとちりぢりに逃げてしまいました。先生であるイエス様が捕らえられ、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町には主イエス様の残党を探して捕らえようとしている人々がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、戸に鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。そこへ主イエス様が何のとがめる言葉も言わずに「あなたがたに平和があるように」「やあ、今日は」と挨拶してくださったのです。どんなにか嬉しくホッとしたことでしょうか。弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は戸に鍵をかけて閉じこもるところにはありません。ここの「戸」は原文のギリシャ語では複数になっていました。英語ではdoorsとなっていました。この「戸」は家の戸であるとともに弟子たちの心の「戸」でもあるのだと思います。弟子たちは、いくら鍵をかけていても心の戸は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和は主イエス様が共にいてくださるところから来ます。イエス様が共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これが「キリストの平和」です。この平和に満たされたとき、戸を内側から開いて出て行くことができるだと思います。

 続いては、主イエスの言葉「聖霊を受けなさい」です。イエス様はこの言葉の前には、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言っています。「派遣・ミッション」ということです。これまで父である神様に派遣された者としてイエス様が地上で行ってきたことを、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、使命を果たすことができるように「聖霊」という神様からの力が与えられるのです。
 復活したイエス様は弟子たちに言います。22節・23節です。『彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」』
 この「息」と訳されている聖書の言葉はギリシャ語では「プネウマ」と言いますが、息とか風といった意味とともに「霊」という意味を持つ言葉です。ですから、復活したイエス様が弟子たちに「プネウマ 息」を吹き込まれたというのは、復活のイエス様御自身の「プネウマ 霊」を注ぎ込まれたと読むことができます。私たちは人の罪を赦すことはなかなかできません。それができるとすれば復活のイエス様の「プネウマ 息・聖霊」を受けることによってなのだと思います。
         
 次に注目したい主イエス様の言葉は「信じる者になりなさい」です。その言葉はトマスに向かって言われました。24節には 「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス」とあります。トマスの名はディディモ(訳せば「双生児」)です。トマスは「双子」だったようです。あるいは、トマスがイエス様とよく似ていたので「双子」と呼ばれていたのかもしれないと、私は想像します。ちなみに、英語でdoubting Thomasという表現があります。(証拠なしでは信じない)疑い深い人のことをこう表現します。疑い深いところがあり仲間の復活の証言を最初信じられなかったトマスでしたが、ひとたび復活したキリストに直接出会うと、今度は反対に地の果てまでキリスト教をもたらす者となったのです。伝承では、あの時代、種々の悪条件に遭いながら、インドまで宣教に行ったそうです。そうできたのはトマスが主イエス様のこの言葉「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」に聴き従ったからだと思います。これこそ、まことの信仰であります。

 最後にトマスの言葉「私の主、私の神よ」です。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言っていましたが、主イエス様が現れ、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」と言って、トマスは、自分の罪が主イエス様を釘付けにし槍傷をつけたことを示され、更に主の十字架は自分の罪の赦しであることを示され、感極まり、「私の主、私の神よ」と信仰の告白をしたと私は考えます。イエス様の御体に触れることなしにです。ここでは、イエス様を「私の主」だけでなく「私の神」と呼んでいます。これはヨハネ福音書の究極的な「神」キリスト論であり、信仰告白と言われます。
  
  私たちは誰も神様、イエス様を見たことはありません。でも復活したイエス様はいつも私たちと共にいてくださいます。そして「見ないのに信じる人は幸いである」とイエス様は言っておられます。見ることなく信じることが大切なのであります。さらに言えば、見ることよりも聞くことが大切なのかな、とも思います。何を聞くかといえば神様の声、そしてイエス様の言葉を聞くことが大切なのだと思います。
 皆さん、イエス様はいつも私たちに「あなた方に平和があるように」と語りかけ、新しい使命を授け、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけておられます。そして、その使命は「ミッション、宣教」ということでもあると思います。「使命」という字は「命を使う」と書きます。私たちは、神様の宣教のため自分の命を使いたいと願います。
 前橋の教会の新築なった会館を、神様の宣教のツール(道具)として使うことができるよう願います。地域に開かれた教会、地域に奉仕する教会を目指したいと思います。
 復活された主が共にいてくださり、聖霊を送ってくださることを知り、日々、その聖霊を受け、復活のキリストの証人としての使命を果たすことができるよう祈り求めて参りたいと思います。