マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活前主日 聖餐式『十字架のイエス様と向き合う』

 本日は復活前主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書50:4-9a、詩編31:9-16、フィリピの信徒への手紙2:5-11、マルコによる福音書15:1-39。説教では、十字架のイエス様と向き合い、神の意志を受け入れ百人隊長のような信仰を持つことができるよう、神の導きを祈り求めました。
 本日のテーマと関係して、祭壇のイエス様の磔刑像の前に身を置き向かい合うよう勧めました。
 前橋での説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活前主日です。復活日(イースター)の一週間前の日曜です。今日から一週間が聖週(Holy week)です。先ほど礼拝の冒頭に、聖堂内の聖画により「十字架の道行きの祈り」を捧げることができ、感謝いたします。
 本日はしゅろの主日Palm Sunday)とも言われます。祭壇にもしゅろが飾られていますね。イエス様がエルサレム入場の時に群衆がしゅろを持ちその枝を道に敷いて歓迎した日です。この後退堂聖歌で歌う第137番「ユダのわらべの」はこの日のことを歌っています。
 なお、受付にある、昨日有志により制作され、今朝、祝別された「しゅろの十字架」をお持ち帰りになり、来年の「大斎始日(灰の水曜日)」まで、思い思いの場所に保管してください。

 さて、本日の福音書箇所はマルコによる福音書15:1-39です。聖金曜日(受苦日)の夜明けの裁判から午後3時にイエス様が息を引き取られるまでを描いた箇所です。
 ここのあらすじは以下のようです。
『夜が明けると、祭司長たちはイエス様をピラトに渡しました。ピラトは祭りのたびに囚人を一人釈放していた慣習に従い、イエス様を釈放しようとします。しかし、祭司長たちに扇動された群衆たちの声に負けて、ピラトはイエス様を十字架につけるために引き渡しました。兵士のあざけりを受けた後、イエス様はゴルゴタの丘に引かれて行き、十字架につけられました。通り掛かった人々も、一緒に十字架につけられた強盗もイエス様を侮辱しました。イエス様が十字架の上で息を引き取ると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、百人隊長は「まことに、この人は神の子だった」と言うのでした。』

 本日はこの箇所の後半、15:25-39を中心にお話しします。
 25節にあるように、イエス様が十字架につけられたのは午前9時。罪状書きには、「ユダヤ人の王」とあり、ただの犯罪人の一人としてイエス様はあげられました。人々は頭を振りながら、イエス様を罵って言いました。29節・30節です。
『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」』
 誰も十字架を意識していません。十字架にかからない賢い生き方、それこそが、救いだと思っているのでしょう。律法学者や祭司長たちはこう言いました。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。」
 彼らは上手に困難をくぐり抜け、結局は自分が良いところに置かれるために、信仰を生きようとしているように思われます。

 次に、イエス様が十字架上で述べられた言葉に注目します。34節にこうあります。
『三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。』
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」はイエス様がお話ししていたアラム語です。マルコはこの言葉をあえてイエス様が叫ばれた言葉そのもので記しました。これは父なる神様に訴える、人間的な率直な叫びです。イエス様は「わが神、わが神」と二度唱え、親しみを込めて語りました。この言葉は、詩編22編の最初の言葉でもあります。
 そして、37節です。
『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。』
 マルコではイエス様の最後の言葉の内容は記されていませんが、ルカではこう記されています。23:46です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
 ここの「私の霊を御手に委ねます。」は詩編31編6節の言葉です。もしかしたらイエス様は詩編を22編の最初からここまで唱えていたのかもしれません。
 私たちは不安と戸惑いの中で、神様に「なぜか」と問いかけます。イエス様の「なぜ」も同じだと考えます。沈黙する神様に「わが神、わが神」と呼びかけるイエス様は、「なぜ」と問いながら、神様の声が聞こえるのを待っています。この叫びは絶望ではなく、神様の応答を求める祈りです。そこにあるのは「神様への全幅の信頼」であります。
 イエス様は十字架上で、人間的な「なぜ私をお見捨てになったのですか」という訴えの後、最後は「御手に委ねます。」と神様の思い(意志)を全面的に受け入れたのです。 

 さらに、39節の百人隊長の反応を見たいと思います。こうあります。
『イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。』
 「このように」とは、イエス様が息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が裂けて神と人を断絶させていたものが取り払われたということです。それを見て、百人隊長は、「イエス様は神の子だった」と断言したのでした。異邦人であるローマの百人隊長がイエス様を神の子であると告白したのです。
 この百人隊長の反応は、35・36節の人々の反応と対照的です。どちらの箇所にも原文を見ると「そばに立っていた」という分詞(35・39節)と、「見る」という動詞(36・39節)が使われていますが、同じ動詞を使うことによって、イエス様の十字架をめぐる二つの立場が対比されています。一方にとって十字架は嘲笑の対象であり、他方にとっては神様のみ心を読み取るしるしです。何がこの違いを引き起こすかといえば、イエス様に対して取っている百人隊長の姿勢と言えます。彼は十字架の「そばに立っていた」だけでなく、イエス様と「向かい合って」います(39節)。百人隊長はイエス様と「向かい合って」いたのです。この「向かい合う」はギリシャ語原文では「エナンティオス」であり「相対している」という意味です。英語の聖書では「facing(直視して、顔と顔を合わせて)」とありました。十字架のイエス様と「向かい合う」「顔と顔を合わせる」なら、イエス様を神の子と告白する者となるのです。イエス様をからかう者は「そばに立って」はいても、目をイエス様に向けてはいません。そのような者には十字架は嘲笑の対象でしかありません。イエス様と向かい合い、十字架の死を直視する者には、十字架を通して語りかける神様の声が聞こえます。

 祭壇の、イエス様が十字架についた磔刑像をご覧ください。

  イエス様が息を引き取った瞬間の像です。これによって神と人を隔てていた幕が取り払われたのです。この十字架のイエス様と向き合うことが求められているのです。
 以前にもお話ししましたが、「祈る」のギリシャ語は「プロセウコマイ」で、この言葉は「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」の合成語で、神様・イエス様の前に自分を置くことであり、イエス様と向き合うことであります。
 イエス様の「そばに立って」からかう者となるのか、イエス様の前に自分を置き、イエス様と向き合って、「まことにこの人は神の子だ」と告白する者となるのか。十字架はどちらの側につくかを問いかけています。

 皆さん、イエス様は十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と自分の思いを神様に率直に述べました。私たちも、神様に率直に訴え懇願していいのです。心に決めた願いごとを言葉にすることを恐れてはいけません。しかし、最終的に、「父よ、私の霊を御手に委ねます。」と言うことを忘れてはならないと思います。また、異邦人である百人隊長はイエス様の前に自分を置き、向かい合って十字架のイエス様を直視しました。それにより十字架を通して語りかける神様の声が聞こえ、イエス様を神の子と告白する者に変えられました。私たちも十字架上のイエス様のように神様の思い(意志)を全面的に受け入れたいと願います。また、百人隊長のような信仰を持ちたいと願います。
 しかし、それは自分の力でできるものではありません。そうできるように神様が導いてくださるように祈る、それが私たちキリスト者の祈りなのであります。
 私たち、マッテア教会では、今年の宣教聖句に「絶えず祈りなさい。」という言葉が入っています。日々祈ることに努めたいと思います。 
 十字架のイエス様と向き合い、神様の意志を受け入れ、百人隊長のような信仰を持つことができるよう、神様の導きを祈り求めて参りましょう。

 本日は復活前主日・しゅろの主日です。今日から始まる聖週を祈りを持って過ごし、主イエス様の十字架に思いを馳せ、聖金曜日(受苦日)を経て、喜びの復活日(イースター)を迎えたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン