マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節前主日 聖餐式 『楽園でイエス様と共にいる恵み』

 本日は降臨節主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、エレミヤ書23:1-6とルカによる福音書23 :35-43。悔い改め、イエス様を王と信じる者は御国に迎えられ、楽園でイエス様と共にいる恵みが与えられることを知り、その恵みを受けて、神の国を生きていくよう祈り求めました。今日の聖書箇所から思い浮かべた渡辺和子の「置かれたところで咲きなさい」の中の言葉「運命は冷たいけれど摂理は温かい」についても言及しました。

   楽園でイエス様と共にいる恵み

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は、降臨節主日、教会暦で一年最後の主日です。カトリック教会では「王であるキリスト」といわれる主日です。  
 本日の聖書箇所は、旧約聖書は、バビロンへ捕囚となったユダの回復の預言を記したエレミヤ書の箇所です。また、福音書は、ルカによる福音書の23章5節~43節で、イエス・キリストがどのような王であるかが述べられています。

 福音書を振り返ります。今日の出来事はゴルゴタの丘の上の出来事です。イエス様は十字架に上げられ、その両側に犯罪人が二人、右と左に十字架に架けられていました。そしてその足元にはローマの兵士がいて、もう少し外には議員たちがいて、今日の箇所には出てきませんが、さらにそのまわりで民衆が十字架を見ていました。
 十字架に架けられているイエス様に向かって、遠い方から順に、まず議員たちがあざ笑って言います。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と。兵士たちもイエス様に近寄って、酢(前の訳は「酸いぶどう酒」)を差し出しながら「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と言って侮辱しました。酢(または酸いぶどう酒)は痛み止めで、死を早めるために用いられました。イエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてありました。
 そのイエス様の隣に犯罪人が十字架に架けられていました。この犯罪人はイエス様を罵(ののし)って言いました。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」と。
 議員も、兵士も、犯罪人の一人も「十字架から降りて、自分を救え」と言っています。
 一方、もう一人の犯罪人はたしなめて言いました。
「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」そう言いました。するとイエス様は、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われました。

 こういう箇所でした。本日の聖書を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 この時、イエス様は何をしておられたでしょうか? 今日の箇所の直前で、イエス様は自分を十字架につけた人たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(34節)と祈っていることが記されています。イエス様を罵っている人の中で、この犯罪人のうちの一人だけが「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言いました。彼だけが十字架刑を当然のこととして受け止め、悔い改め、イエス様の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」という祈りに応え、彼だけが「私を思い出してください」と祈ったのです。
 この犯罪人の人生の最期における祈りはただ「思い出してください」ということでした。イエス様と共に十字架で死んだ「一人の犯罪人」を思い出してほしいと。十字架上で共に死のうとしているイエス様は、自分を殺す人々、自分を罵る人たちのために父なる神に祈る人です。不運な運命を嘆き、呪いの言葉をかけるような状況において、その人たちの罪の赦しを祈る人でありました。この一人の犯罪人はこう思ったのではないでしょうか? 「私は自分自身が犯した罪のために地獄に行くだろうが、この人は間違いなく御国に行くであろう」と。御国とは、英語ではYour kingdom、「あなたの王国」であり、「国」はギリシャ語で「バシレイア」、神様の支配、統治を意味します。「支配」という字は「支え配る」と書きます。「支配する」とは、私たちを支えて、必要なものを配るということです。その役目を負っているのが王で、御国とは、それを神様が行っている場所です。神様の統治する御国に行ったら「私を思い出してください」と言うのです。その祈りに対してイエス様は「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われたのです。
 イエス様はここで「楽園」という言葉を使っています。「楽園」とはギリシャ語では「パラデイソス」、英語で「パラダイス」という言葉です。口語訳聖書ではそのまま「パラダイス」と訳されていました。ここでのイエス様の言葉では「一緒に」という言葉も重要であると考えます。「私と一緒に」つまり、「死後はイエス様と共に楽園にいる」とはなんという恵みでしょう。旧約聖書の時から、楽園、パラダイスとは「神の祝福と喜びにあずかる場所」です。本日の詩編23編6節で詩人が「永遠に主の家に住む」と歌っている「主の家」のことです。このイエス様の「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という御言葉は、「あなたは今日、イエス様と共に主の家で神の祝福、救いにあずかる」ということです。悔い改め、イエス様を真の王と信じる者はその御国に迎えられ、楽園でイエス様と共にいる恵みが与えられるであります。

 本日の福音書では、イエス様を挟んで二つの十字架観(十字架をどう観るかということ)が対置されています。「一方には十字架から降りることのできないイエス様はメシア(救い主)ではなく、十字架は彼がメシアではないことの証拠と見なす人がいる。反対側には、イエス様は十字架から降りないからメシアなのであり、十字架こそ彼がメシアであるしるしなのだと考える人がいる。」ということです。私たちはイエス様の十字架の両脇の二人の犯罪人のどちらにもなれます。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」とイエス様をののしる人になるか、あるいは「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と謙遜に言う人になるか、です。  
 あるいは、この二人が一人の人間の中に同居していると考えられるかもしれません。一人はイエス様が願いを叶えてくださらないと憤る、もう一人はへりくだりイエス様に信頼している、そういう二人が自分の中にいる、そのようなことがあるかもしれないと思うのです。

 私たちは、毎主日教会に来ているのに、どうして不幸が来るのだろうか? 家族が病気になったり、予期せぬことが起こったり・・・。真面目に信仰生活を送っているのになぜなのか、というふうに思うことがあるかもしれません。健康であるようにとか、仕事がうまくいくようにとか、人間関係がうまくいくようにとか、そういうことを私たちは願いますが、その願いが全部叶うわけではありません。時にはほとんど叶わないこともあるかもしれません。そのようなときに「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と謙遜に願うこの一人の犯罪人の立場に自分を置くことができるかどうか。そのことが、私たちに問いかけられているのだと思います。

 本日は「王であるキリストの主日」です。イエス様はどこの王様なのでしょうか? それは神の国の王様です。この世の国の王様ではありません。イエス様が支配、統治されているのは、神の国です。本日の旧約聖書エレミヤ書23章5節に「私はダビデのために正しい若枝を起こす。彼は王として治め、悟りある者となり この地に公正と正義を行う。」とありますが、この若枝がイエス様でありイエス様が王として治めているのが「神の国」であると言えます。
 イエス様は、死を前に神を信じ悔い改めたこの犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と、神の国に入ることを、保障しています。「十字架に架かるイエス様が王である」というのは、そういうことではないでしょうか? 神の国の入口は、十字架だということかもしれません。だからこそイエス様は十字架に架かられたし、十字架に架けられた一人の犯罪人は、神の国に入ったのであります。
 「十字架」というのは私たちにとって、小さな苦しみだったり悩みだったり、うまくいかないことであったりします。しかし、十字架は神の国の入口です。この世的に見たらマイナスと思えることを通して、イエス様は私たちを神の国に招いておられるのかもしれません。ですから、神の国を生きていくことを、私たちは心がけなければならないと思います。そこに本当の恵みがあります。そこは神様の王国、そこを王であるキリストが支配しておられる。イエス様が支え必要な物を配ってくださる。その恵みに私たちがあずかるように、今日、私たちは呼ばれているのではないでしょうか?

 本日の聖書個所で浮かんだ言葉があります。それは「摂理Providence」という言葉です。神の計らいです。シスター渡辺和子が、ベストセラーとなった「置かれたところで咲きなさい」の中で「運命は冷たいけれど摂理は温かい」と言っています。

 ちなみにこの本「置かれたところで咲きなさい」の表紙の下には英語で「Bloom where God has planted you.」とあります。今まで帯で隠れていて、それを取ったらこうありました。直訳すると「神があなたを植えたところで咲きなさい。」です。「今の状況は神様が備えたもので、そこで花を咲かせなさい」ということです。この本の中で、渡辺和子が50歳の時に「うつ病」と診断されたとき、あるお医者さんが「運命は冷たいけれど摂理は温かいものです」と話されたことが記されています(P.75)。
 今日の二人の犯罪人の最初の人は自分の人生を運命ととらえ、次の犯罪人は摂理ととらえたのではないでしょうか? 私たちの人生には時として予期せぬことが起きます。それを降って湧いたような天災や人災、つまり運命として受け取るのでなく、どうせ受け取るなら、摂理(Providence)として、神の計らいとして受け取ること。この置かれた状況には必ず何か意味がある、という発想を持ちたいと思います。

 皆さん、私たちの中には「どうして自分にこんな不幸なことが起きるのか、神も仏もいないと思う心」と「イエス様こそ神の国の王であり、すべてをイエス様に委ねようと思う心」が同居しているように思います。しかし、「運命は冷たいけれど摂理は温かい」のです。悔い改め、イエス様を真の王と信じる者はその御国に迎えられ、楽園でイエス様と共にいる恵みが与えられるです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」という謙遜な信仰を持ちたいものであります。
 私たちは日々の生活の中で、日々小さな十字架があるかもしれませんが、それこそが神の国の入口であることを思い、イエス様が共にいてくださる恵みをしっかりと受け止めて、神の国を生きていくよう、祈り求めたいと思います。