マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖金曜日(受苦日)礼拝『真理とは何か・・・この人を見よ』

 本日は聖金曜日(受苦日)です。前橋の教会で午後2時から約1時間、聖金曜日(受苦日)礼拝を捧げました。 
 聖書箇所は、イザヤ書52:13-53:12とヨハネによる福音書18:1-19:37。イエス様を見つめ、自分にとって何が真実、真理なのか、何を大切にしているのか思い巡す中で「神は愛である」ことを実感するように祈り求めました。
 聖週に見ているDVD、フランコ・ゼフィレッリ監督の「ナザレのイエス」についても言及しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 日曜から聖週(Holy week)が始まりました。マッテア教会では、3月8日(水)から『大斎節中の「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」』を行ってきました。一昨日、4月5日(水)に一応終了しました。数名の信徒の皆さんとこの祈りを守ることができ感謝です。
 聖週に私はこのDVDを見ています。「ブラザー・サンシスター・ムーン」や「ロミオとジュリエット」の監督フランコ・ゼフィレッリの「ナザレのイエス」です。

 元々は1977年のテレビ放映のため制作されたイエス・キリストの全生涯を描いた、6時間を超える超大作です。オリヴィア・ハッセーローレンス・オリヴィエアンソニー・クインなど豪華な俳優陣が迫真の演技を繰り広げ、絵画のように美しい映像です。監督のゼフィレッリは、この作品と「ブラザー・サンシスター・ムーン」を「特別に運命的なものを感じて制作した」とのことです。
 
 さて、私たちは今、聖金曜日(受苦日)の礼拝を行っています。本日の旧約聖書イザヤ書52章13節以下の「苦難の僕」の箇所、福音書箇所はヨハネ福音書18章以下のイエス様受難の箇所で、かなり長い朗読でした。
  
 映画にもありましたが、私が今回ここでまず注目したのは、福音書のピラトのこの言葉です。18章38節です。
『ピラトは言った。「真理とは何か」。』
 ピラトはイエス様にこう尋ねました。ローマ帝国ユダヤの総督である権力者、ピラトも真理を探し求める人であったのです。この「真理」は原語のギリシャ語では「アレーセイア」と言い、英語の聖書ではtruthとありました。真理と訳すのがいいのか、真実、と訳したほうがいいのか…ギリシャ語の辞書には両方ありました。言い換えれば、本当のもの、あるいは最も大切なもの、ということだと思います。「真理、あるいは真実とは何か」と尋ねて、この対話が打ち切られます。結局ピラトにとって、ほんとに大事なものは何なのか、分からないままでした。それは私たちが思い巡らす一つのテーマだと思います。自分にとって真実とは一体何なのか、別の言葉で言えば、自分にとって大事なもの、大切なものは一体何なのか、ということです。
 ピラトにおいて、それは権力でした。ですから、イエス様に向かって「王なのか?」と聞いています。「お前はユダヤ人の王なのか」と。18章33節です。ピラトは非常に残忍な人で、結局は失脚しますが、あまりに残酷で、次々と人を殺しても平気だったと言われます。しかし、ここでのピラトはイエス様の味方で、「イエス様を救いたい」と願っているようにさえ感じます。ピラトはイエス様を釈放したいと思ったようです。それで、紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせて、この姿を皆の前に見せたら、もう、皆許してくれるだろうと考えたのかもしれません。19章5節にこうあります。
『イエスは茨の冠をかぶり、紫の衣を着て、出て来られた。ピラトは、「見よ、この人だ」と言った。』
 ピラトはイエス様を人々の前に連れていって、「見よ、この人だ」と言いました。ギリシャ語原文は「イドゥー・ホ・アンスローポス」、ラテン語では「エッケ・ホモ」と言います。「見よ、これが人間だ」「この人を見よ」とも訳せます。次に注目したい言葉がこれです。聖歌にもあります、「この人を見よ」と。それはこの後歌う聖歌357番です。 

 1節の歌詞はこうです。
「1 まぶねの中に産声あげ たくみの家に人となりて 
   貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」 
 2節・3節も見て参りましょう。
「2 食する暇も うち忘れて 虐げられし 人を訪ね 
   友なきものの 友となりて 心砕きし この人を見よ 
 3 すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも 報いられで 
   十字架の上に あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」
 この聖歌はイエス様の生涯が歌われ、4節までありますが、各節の最後がどれも「この人を見よ」となっています。 
 ピラトは「見よ、この人だ」「この人を見よ」と言いますが、ユダヤ人たちの「十字架にかけろ」という声にピラトは圧倒され、結局、イエス様を釈放できませんでした。ここではピラトは証人のようです、「見よ、この人だ」と。途中から証人のようになってきて「見よ、あなたたちの王だ」と。逆にこの人が王だと言っています。19章14節です。ピラトがそう告白しても、「十字架につけろ」という声に、ピラトは恐れおののいてしまいます。

 「見よ、この人だ」(エッケ・ホモ)ということを、私たちも日々の生活や祈りの中で行うことが求められているように思います。十字架につけられたイエス様を見つめて、そこに何を見い出すかということです。皆さんは十字架のイエス様の姿にどういう真実、真理を見い出されますか? 

 イエス様は言います。18章37節の後半です。「私は、真理について証しするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」と。声だけではなくてイエス様の姿を見る、ということも含めているのでしょうが、何が自分にとって真実であるか、イエス様は何の真理を証ししたのか、それを知るためにはイエス様の声を聞き、姿を見ることが肝要であるということだと思います。つまり、イエス様の姿にどういう真実を見出すのか、イエス様の十字架、復活、あるいはその言葉や行動に、どういう真理を見い出していくのかということです。
 最終的にイエス様が証しした真理は、ヨハネ福音書の始めから最後まで、そして旧新約聖書の始めから最後までに記されているように「神は愛である」ということだと思います。私たちは「神は愛である」ことをご自身の生き方で示したイエス様をよくよく見つめることが求められていると考えます。

 結局、ピラトはイエス様を十字架につけます。罪状書きには、「ナザレのイエスユダヤ人の王」とありました。…イエス様は王として、ナザレの人ですが王として宣言されて十字架上で亡くなります。しかも、ヘブライ語ラテン語ギリシア語で書いてあったのです。その時の世界の共通語全部で書いてあったのです。つまり、全人類に向かってそれが宣言され、イエス様が全人類の救い主であることを指し示していると考えられます。
 イエス様を、十字架上のイエス様を私たちを王として、私たちのメシア、救い主として、本当にこの世を治めている者としてイエス様を見つめていくことができるかどうか。そこに、私たちの生きていく真実を見出していけるかどうか。それを日々の生活や祈りの中で振り返りたいと思います。自分の真実は何なのか、実際何を大切にしているのか、そのようなことを今日の聖金曜日(受苦日)に思い巡らし、深められたらいいと思います。

 ちなみに、ギリシャ語で「テオリア(セオリア)」、ラテン語で「ビジオ・デイ」という言葉があり、それは「祈り」の体験の深みを表現した言葉で、日本語ではこれを「見神、神を見る」と訳しています。「セオリア」は動詞「セオレオー」(観察する)の名詞形で、ただ見るのではなく「見つめること」「観想(黙想)すること」です。英語の「セオリー」の語源です。また、「ビジオ・デイ」は直訳すれば「神の眼差し」であり、それは「神の眼差しの中に私たちが見出されること」です。言い換えれば「神様に見つめていただくこと」と言えます。私たちが聖堂内で祈るとき十字架のイエス様を見つめますが、実は「イエス様に見つめられている」のだとも言えます。そして、それは「神様に見守られている」ということであります。

 皆さん、イエス様は私たちを救うために十字架上で死を遂げられました。そのイエス様を見つめ黙想し、自分にとって何が真実なのか、何を大切にしているか思い巡らし、その中で「神は愛である」ことを私たちが実感できるよう神様の導きを祈りたいと思います。

 最後に、先ほど触れた聖歌357番「この人を見よ」の4節をお読みします。
 4 この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
   この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ
 私たちは、このように真理を証しするイエス様をよく見つめ、「神は愛である」ことを実感し、人となった生ける神であるイエス様を心から賛美する者でありますよう祈り求めたいと思います。
 しばらく黙想いたしましょう。