マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第20主日(特定23) 聖餐式 『天に宝を積み、イエス様に従う』

 本日は聖霊降臨後第20主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました(前橋は「み言葉の礼拝」)。聖書箇所はヘブライ人への手紙3:1-6とマルコによる福音書10:17-27。説教では、永遠の命を受け継ぐためにイエス様が求めておられることについて思い巡らし、それをめざして、イエス様に従って生きることができるよう祈り求めました。また、本日の福音の御言葉を文字通り実行した人として聖フランシスコを挙げ、彼の生涯を忠実に映像化した映画「剣と十字架」について言及しました。

    『天に宝を積み、イエス様に従う』

<説教>
  主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第20主日です。本日の福音書はマルコによる福音書第10章17節からで、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「金持ちの男」となっています。

 今日の箇所を振り返ってみましょう。
 17節にこうあります。『イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」』
 この人が、「永遠の命」を真剣に求めていることは、走り寄ってひざまずく姿に明確に示されています。「永遠の命を受け継ぐ」あるいは「神の国に入る」という言葉は、「救いにあずかる」ということを意味しています。「救われるためには何をしたらいいのでしょうか」という問いかけがイエス様に向けられたのです。イエス様は十戒の中の人に関する戒め六つを挙げます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え」という戒めであれば、「少年の頃から守ってきました」とこの人は答えます。
 これを聞いて、21節で「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書かれています。この「慈しんで」は原文のギリシア語では「アガパオー」であり、それはアガペー(神の愛)の動詞形です。イエス様の深い愛が感じられます。
 さらに「あなたに欠けているものが一つある」とイエス様は語ります。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
 それが救いにあずかる道であるとイエス様は語りかけます。
 その一つのこと、財産を他の人に与えるということがどうしてもできず、金持ちであるこの人は悩みつつ立ち去りました。
 この後はイエス様と弟子たちとのやりとりになります。「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか。」というイエス様の言葉に弟子たちはとても驚きます。当時の考えでは、富は神様からの祝福の表れと考えられていたからです。さらにイエス様は25節でこう言います。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」らくだは、ユダヤ地方では最も体の大きな動物です。針の穴を通ることなどできません。これは「不可能である」ということを語る言葉です。すなわち金持ちが救われることはない、ということです。たいへん厳しい言葉です。弟子たちはますます驚きます。「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と互いに言い合います。
 イエス様はそういう弟子たちに言われました。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」と。
 このような内容でした。

 今日のこの箇所で、イエス様は何を伝えようとしているのでしょうか? 
 冒頭の金持ちとイエス様とのやりとりを見てみましょう。
  金持ちが「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねるとイエス様は言われました。「なぜ私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。」と。
 イエス様は、ここで、この人に「何をすべきか」という人間的な努力から目を離して、神様に目を向けさせようとされています。「神おひとりのほかに善い者は誰もいない。」と言うことによって、「自分がどうすればよいのか」ということから、「神様がどうされているのか」というように考え直すよう促していると考えます。
 そして21節で「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」と言って、「天に宝を積むこと」と「イエス様に従う」という信仰者の生き方を明確に示しています。「天に宝を積む」とは、自己の存在の根拠を天(神)に求め、神様を中心に生きることを意味します。私たちがそうできるのは、イエス様が私たちを見つめ慈しんで、つまり愛しておられるからです。私たちは、イエス様の愛を受けることにより、人に施しを与えることができるのであります。
 イエス様はさらに25節で「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」とおっしゃいます。その真意は何でしょうか?
 私は、この誇張した表現も私たちを人間的な努力から神様に目を向けさせようとしていると考えます。今日の箇所の最後の27節に「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」とあります。私たちはなかなか執着心をなくすことが難しいことはイエス様ご自身ご存じです。しかし、「神にはできる。」とおっしゃいます。神様の力を強調し、「神様こそが救いへの唯一の道である」と説いています。神の国へ入ることを妨げているものは財産だけではありません。神様の力に信頼できずに、この世の力にすがることが、人を神の国から遠ざけているといえます。
 「だから、神にゆだねなさい」と言っているようです。これは人間中心の生き方から神様中心の生き方へ私たちを促していると考えられます。
 すべてを可能にできる神様に信頼し、その御子であるイエス様に従って生きたいと願います。

 「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。」この福音の御言葉を文字通り実行した人として、聖フランシスコを挙げることができると思います。清貧と奉仕に生きた聖人です。この聖フランシスコの生涯を忠実に映像化した映画があります。「剣と十字架」です。私は先日、久し振りにこのDVDで再度見ました。

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 聖フランシスコは13世紀にイタリアのアッシジの裕福な家に生まれ、文字通り桁違いの財産があったと思いますが、表面的な豊かな生活に満たされない思いを抱き、イエス様の御言葉に従って、財産を売り払って貧しい人に施しました。何もなくなったので、生活に必要なものは施しをもらって生活しました。弟子も増えてきましたが、みんな貧しい暮らしをしながら宣教活動をしました。
 確かに、文字通り財産を売り払うのはなかなか難しく、誰にでもできることではありません。けれども、このフランシスコの精神というか、フランシスコの生き方に少しでも近づいて、実践することは私たちにもできると思うのです。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。」とはありますが、「すべての財産を」とは言っていません。ここの原文のギリシャ語は相関代名詞「ホサ」でつながり、英語ではas much as (できるだけたくさん)とありました。自分のできる範囲で最大限の施しをすることだと思います。
 そして、イエス様に従うことです。イエス様はこれから十字架へと向かわれるのですが、私たちも自分の小さな十字架を背負ってイエス様に従うことが求められていると考えます。十字架は「愛」を意味しています。小さな愛でも意味があります。ちょっと相手のために犠牲を払って親切にしたり、何か手伝ったりするのは、小さな愛です。誰かのためにちょっと我慢して忍耐したり、不都合を忍ぶ。これも愛です。小さな犠牲は、小さな十字架です。
 財産に代表される自分の持っているものに執着するのでなく、神様に目を向け、イエス様の愛を受け、自分のできる範囲で最大限の施しをする。
「ここに真の喜び、永遠の命につながる生き方があるのです」とイエス様は仰せになっているように思います。「私に従いなさい」と言われた言葉を受け止め、イエス様の十字架の道に従っていくならば、そこには永遠の命があるのです。

 皆さん、永遠の命を受け継ぐには、イエス様は私たちがこの世の財産に執着するのでなく、神様に目を向け、天に宝を積み、神様中心の生き方をすることを求めておられます。それをめざし、イエス様に従って生きることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。