マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第12主日(特定15) 聖餐式 「聖餐によりキリストとつながる」

 本日は聖霊降臨後第12主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇
所は箴言9:1-6とヨハネによる福音書6:53-59。説教では、聖餐にあずかることにより主イエス・キリストとつながり永遠の命を得ることができることを知り、礼拝を通して神と人に仕える者となるよう祈り求めました。また、祈祷書の中にある教会問答の抜粋を使い、聖餐について学びました。

    「聖餐によりキリストとつながる」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第12主日です。
 ここのところ、主日福音書ヨハネによる福音書6章で、パンに関する出来事や問答が続いています。本日の福音書箇所は6:53-59で、聖餐、つまりイエス様の御体と御血をいただく、そのことを語っていると思われます。
 先週の福音書箇所の最後(6:51)では、イエス様が『私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。』と言われますと、今日の福音書箇所の直前(6:52)で『ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに議論し合った。』とあります。

 これに対するイエス様の答えが、本日の福音書です。主に前半の箇所を中心に考えたいと思います。まず、53節から55節です。
『イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。』
 人の子とはイエス様が自分のことを言うときに使う言葉です。人の子の肉を食べて血を飲むということは、不気味なイメージがありますが、私たちは、神様の命をいただかなければ私たちの本当の命を生きることができない、逆にそれをいただけば永遠の命を得ることができると言っているのです。なお、「私の肉を食べ」の「食べる」はギリシア語では「トローゴー」でした。直訳すれば「むしゃむしゃ食べる」です。この語の意味は「かみ砕く・音を立ててかじる」であり、もともとは人間ではなく、動物が餌を食べることを表す言葉で、必ずしも上品な言葉ではありません。英語の聖書(NIV)ではfeed(訳せば「餌を与える、養う」)でした。ここでは「まことの食べ物」であるイエス様を実際に口に入れて食べることを表しています。

 続く56節にはこうあります。                       
「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」
 ここの「とどまる」という語は、ヨハネ福音書15章で「ぶどうの枝が木につながっている」という言葉では「つながる」という意味で用いられています。ヨハネ福音書では「とどまる」という語はイエス様と信じる者との深い交わりを表す重要な言葉です。
 イエス様のこの「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」という言葉は、イエス様と聖餐を受ける人との深い交わりを表していると考えられます。私たちはイエス様の肉と血、つまり御聖体(聖餐)を受けることでイエス様の中にとどまり、イエス様も私たちの中にとどまってくださるのです。私たちは「聖餐にあずかること」によりイエス様とつながることができるのです。これは「驚くべき恵み(Amazing Grace)」ではないでしょうか?

 では、聖餐とは何でしょうか? 受付で週報や聖書日課と一緒に取っていただいた資料、教会問答(聖餐)をご覧ください。

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 これは私たちの祈祷書の中にある教会問答の抜粋です。この中のいくつかの「問い」と「答え」を使い、少し聖餐について学びたいと思います。

 教会問答の問21と22にこうあります。
21.問 聖餐とは何ですか
  答 キリストのみ定めに従い、その苦しみと死およびよみがえりを、主が再び来られるまで、常に記念する聖奠です
22.問 聖餐の目に見える外のしるしは何ですか
  答 パンとぶどう酒です。主はこれを受けることを命じられました
 聖餐とはキリストの苦しみと死、復活を再臨まで常に記念する聖奠(サクラメント)であり、その外に見えるしるし(シンボル)がパンとぶどう酒なのです。

 では、聖餐によって何が与えられるでしょうか? また、それは、具体的にはどのようなことでしょうか? 問23と24にこうあります。
23.問 聖餐によって与えられる霊の恵みは何ですか
  答 キリストの体と血です。信徒は信仰をもってこれにあずかります
24.問 キリストの体と血にあずかるとはどういうことですか
  答 十字架につけられ、よみがえり、そして永遠の命に生きておられるキリストご自身の命を受け、キリストとの一致、またすべてキリストにある者の一致を強められ、罪の清めと、永遠の命に至る養いを受け、神と人とに仕える者となることです
 聖餐によって霊の恵みが与えられ、それはキリストの体と血であります。私たちは信仰を持ってこれにあずかります。それによりキリストの命を受け、キリストとの一致、キリスト者の一致、罪の清め、永遠の命への養い、神と人に仕える者になります。本日の福音書の58節に「これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」とある通りです。

 パンとぶどう酒は、目に見える「物」です。しかし、天から降ってきた(つまり聖別された)このパンを食べ、このぶどう酒を飲むことは、キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むことであり、それによりキリストと一致し永遠の命を得るのだと、私たちの主イエス・キリストは教えられたのです。
 今、私たち、多くの聖公会の教会では、コロナ禍のため、パンのみの一種陪餐としていますが、カトリックの解釈では御聖体(パン)の中に御血が含まれているとされています。そこで、カトリックの多くの教会では、コロナ禍に入る前から一種陪餐が普通でした。今、私たちもこの理解をしています。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6:56)
 この言葉を心に深く刻みながら、聖餐にあずかりたいと思います。それにより目に見えない神の恵み、キリストの愛を受け取ることができ、主イエス・キリストとつながり、永遠の命を得ることができるのです。皆さんと共にこの後も感謝・賛美の礼拝をささげて参ります。そして、その中で私たちが神と人に仕える者となることができるよう祈り求めたいと思います。