マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第13主日(特定16) 聖餐式 「つまずいてもイエス様にとどまる」

 本日は聖霊降臨後第13主日です。午前・前橋、午後・新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所はヨシュア記24:1-2a、14-25とヨハネによる福音書6:60-69。説教では、「あなたがたも去ろうとするのか」と問われるイエス様の真意を理解し、たとえつまずいたとしても、そのままにせずイエス様のもとにとどまることができるよう、聖霊の導きを祈り求めました。またキーワードである「つまずく」で思い浮かんだキェルケゴールの「死に至る病」の中の言葉にも言及しました。

    「つまずいてもイエス様にとどまる」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第13主日です。
 ここのところ、主日福音書ヨハネによる福音書第6章で、主にパンをめぐるイエス様と群衆との問答が続いていて、今回が結びとなります。
 本日の福音書ヨハネによる福音書6章60節から69節です。まず、この箇所を振り返ってみましょう。

 60節で、多くの弟子たちが、「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」と言っています。多くの弟子がこのように感じた話とはどんな話でしょうか? それはこれまでのイエス様の言葉、具体的には「私は天から降ってきたパンである」(41節)、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)というような言葉と考えられます。天から降ってきたパンとは聖別されたパン、御聖体のことであり、「人の子の肉を食べその血を飲む」とは、聖餐にあずかることと言えます。多くの弟子たちはそのことを理解できず、イエス様も弟子たちがそのことでつまずいていると認識しているのです。61節で「あなたがたはこのことにつまずくのか。」と言っているとおりです。
 なお、ここで「つまずく」と訳されているギリシャ語は「スカンダリゾー」です。この動詞は名詞スカンダロン〈罠〉から派生した動詞で、英語のスキャンダルの元になった言葉です。イエス様を常識で割り切ろうとする、かたくなさや思い込みが、つまずかせることになります。
 62節の「それでは、人の子が元いた所に上るのを見たら、どうなるのか。」とはどういうことでしょうか? 人の子とはイエス様が自分のことを言う時に使う呼称です。イエス様は神様からこの世に派遣されました。「元いた所」とは神様のいるところ、天を指します。天こそがイエス様の故郷なのです。イエス様が命のパンであることを認めることができなければ、ましてや十字架、復活、昇天のことも認められず、一層「つまずく」というニュアンスが感じられます。
 63節から65節までは、命を与える霊(聖霊)の重要性、裏切る者の予告、さらにイエス様が『父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない』65節)と言った経緯が述べられます。これは「聖霊の働きなしには誰もイエス様のもとに来ることができない」と言っているのだと思います。
 66節・67節で、弟子たちの多くがイエス様のもとを離れ、12弟子だけになり、イエス様はその12人に「あなたがたも去ろうとするのか」(67節)と問われます。
 ヨハネ福音書6章の最初はイエス様のところには、男性だけで5千人、女性と子供を加えれば1万人以上の大勢の群衆がいました(2節)。5つのパンと2匹の魚で奇跡を起こした時です。それがやがて「群衆」となり(24節)、イエス様がご自分を「天から降ってきたパンである」などと言うと「ユダヤ人」という敵対表現になり(41節)、さらに「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)などと話されると弟子たちだけになり(60節)、ついに12弟子だけになってしまったのです。その12弟子に向かって「あなたがたも去ろうとするのか」と問う、イエス様のつらく寂しそうな顔が浮かんできます。
 68節・69節で、その問いに対して一番弟子のペトロは「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」 と信仰告白をします。ペトロは「イエス様のもとを去ることはない」という信仰告白をしているのです。

 「あなたがたも去ろうとするのか」とおっしゃるイエス様の真意、本当の思いはどんなものでしょうか? 日本語の表現では、そのニュアンスが分かりにくいのですが、この言葉は、反語的な疑問文であり「離れて行ってほしくない」という心が表れている表現なのです。イエス様は「どちらでもいい」とおっしゃっているのではありません。「私と一緒にいてほしい、私のもとにとどまってほしい。」それがイエス様の真意、本当の思いです。
 
 今日の福音書箇所のキーワードの一つは「つまずくこと」、つまり「つまずき」だと思います。
 「つまずき」で思い浮かんだ本があります。それはキェルケゴールの「死に至る病」です。

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 キェルケゴールは19世紀デンマークの哲学者で、「死に至る病」は、第一編「死に至る病とは絶望のことである」と第二編「絶望は罪である」から成っています。躓(つまず)きについては第二編の中で述べられています。「罪の赦しに絶望することが躓きである。躓きとは罪の度合いの強まったものである」とキェルケゴールは述べています。キェルケゴールの言う罪とは、「神についての意識をもちつつも、なお神に向き直ろうとせず、あるべき自己から逃避していること」です。キェルケゴールは「罪よりも更に大いなる悲惨は、人間がキリストに躓いて、躓きの状態に止まっていることである。」と述べています。さらに、神は人に「汝は躓くか、信ずるか、いずれかをなすべきである」と求めておられます。
 私はこれらのキェルケゴールの言葉から、神を信じることを勧めているのはもちろんですが、「つまずくことにも意味がある」と言っているように思いました。しかし、「つまずいたままではいけない。神を信じ、キリストを認め、聖霊の導きを求めなさい」と言っているように感じたのです。
 ちなみに、キェルケゴールが、躓きという概念に遭遇したのは、若い頃、教会の前を歩いていたときに、石に躓いて転んでしまい、彼はこの躓きの経験を「もっと深いところから考え直せ」というメッセージとして受け止めた、とのことです。人は「躓く存在である」という認識は神秘的であり、人は、躓くことによって信仰的になるという側面があると考えます。
 
 皆さん、今日の福音書でイエス様が12弟子におっしゃった「あなたがたも去ろうとするのか」という言葉は、12弟子たちだけでなく私たち一人一人にも向けられているのではないでしょうか? 
 「あなたがたも去ろうとするのか」。私たちはこの言葉を重く受け止め、自らを見つめたいと願います。そして、たとえつまずいたとしても、イエス様が望んでおられるように、そのままにせず、イエス様のもとにとどまることができるよう、聖霊の導きを祈り求めたいと思います。