マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 17主日 聖餐式『慈しみあふれる神の御心』

本日は聖霊降臨後第 17主日。午前前橋、午後新町の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、ヨナ書3:10-4:11、詩編145:8-13とマタイによる福音書20:1-16。説教では、「ぶどう園の労働者のたとえ」から、1時間の労働に対しても1デナリオンの賃金を与えるという慈しみあふれる神の御心に応え、「すべての人を救いたい」という神の思いを成し遂げ、私たちも共に歩むことができるよう祈り求めました。
 12時間働いた人も1時間働いた人も神様から同じ賜物(恵み)をいただいている例として、聖餐の恵みについても述べました。
 新町用の説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は聖霊降臨後第17主日福音書は、マタイによる福音書20章1-16節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ぶどう園の労働者のたとえ」とあり、イエス様が語られた「たとえ話」です。ここでは、小さき者に対する常識では考えられない慈しみに満ちた神の振る舞いが示されてますが、これに合わせて旧約聖書では、ヨナ書3章から、とうごまを惜しむヨナに対して語られる、人の思いを超えた神の慈愛の物語が選ばれています。

 本日の福音書の箇所をふり返ってみます。
 ある家の主人がぶどう園で働く労働者を雇うために夜明け前(午前6時頃)に出かけて行って、1日につき1デナリオンの約束で労働者を雇いました。1デナリオンとは当時、1日の労働に対する平均的な賃金でした。その主人は9時頃にも何もしないで広場に立っている人々がいましたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』(4節)と言って彼らを雇いました。昼の12時頃と午後3時頃にも、その主人は広場に出かけて行って同じようにそこにいる人たちを雇いました。もう1日が終わろうとしている5時頃にもその主人は人を雇いにやってきました。そして、誰にも雇ってもらえないその人たちを、わずか1時間だけでも雇ったのです。
 さて1日の仕事が終わり、賃金が支払われる時が来ました。最後(5時頃)に来た人から賃金が支払われました。1デナリオンずつ支払われていきました。そして最後に、最初に雇われた人(夜明け頃から働いていた人)にも賃金が支払われました。その賃金は同じ1デナリオンでした。夜明け前から働いていた人たちは『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』(12節)と不平を言いました。
 すると、このぶどう園の主人は、その一人に『自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。』(14節)と、言いました。
 そして、この「たとえ」の最後に、イエス様は「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(16節)と言って、この話を結ばれました。

 この「たとえ」の最初に、イエス様は、「天の国は、ある家の主人に似ている。」とおっしゃって、この話を始められました。これは、この主人の行動の仕方が天の国と共通する特徴を持っているということです。この主人により夜明け前(午前6時頃)に雇われた人は暑い中、午後6時まで一日中約12時間働きましたが、午後5時に雇われ1時間働いた人と同じ1デナリオンを支払われました。この「たとえ話」を聞いて、皆さんは、どのように感じられるでしょうか?

 今日の社会では、賃金は労働の対価として支払われ、「同一労働、同一賃金」ということが盛んに言われています。働いた量、働いた時間に対して、同じ賃金を支払うということは、私たちの常識です。
 ところが、先ほどお読みした福音書では、イエス様は、全く違った、不公平、不平等な労働条件で働かせた例を示して、「天の国のたとえ」を語られました。ここで述べられている神様の真意、思いはどういうことでしょうか?
 そのことでは本日の旧約聖書のヨナ書4章が参考になります。この箇所では、日陰になっていた「とうごま」が枯れたことを惜しむヨナに対して、神様は11節で異教徒、異邦人の国に対して「それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」と語っています。自分の思うとおりにならなかったことを怒るヨナと対照的に、神様の慈しみに満ちた寛大な振る舞いが述べられています。
 それは、今日の福音書で示されている、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と言って1時間の労働に対しても1デナリオンの賃金を与えるという、常識では考えられない、気前のよい慈しみあふれる主人の姿と共通するものです。
 本日の旧約聖書、そして福音書を通して「神様は、このように慈しみあふれるお方です」と言っておられるのであります。
 そして、福音書のこの話は天の国、神の国のたとえ話です。つまり、この世の労働、価値基準の話をしているのではありません。ここでは、能力価値ではない、存在価値を主は認めておられるのです。それは、お恵みの世界です。また、「神様の世界が私たちが生きていく中で、どうあるか」と問いかけている話でもあります。自分を12時間働いた労働者の側に置けば不平も出てくるかもしれませんが、自分が夕方になっても誰にも雇ってもらえなかったのに1時間働いて1デナリオンの賃金をいただいた者だったらどうでしょうか? 本当にお恵みと感じて喜んだと思います。

 このたとえ話の、主人は神様、ぶどう園は御国(神の国)を表していると考えられます。では「1デナリオンの賃金」とは何でしょうか? 神様が能力や効率にかかわらず、すべての人に支払いたいと願っている神の御心です。それは神様と共にある「永遠の命」ではないでしょうか? それは御国に仕えた報酬ではなく、神様からの賜物(恵み)であります。

 12時間働いた人も1時間働いた人も神様から同じ賜物(恵み)をいただいている。実は、私たちは毎主日そのことを実感しています。それは何でしょうか? それは聖餐の恵みです。私たちキリスト者は、御聖体(イエス・キリストの体である聖別されたパン)をいただいていますが、それは信仰歴の長さや奉仕の量等で枚数が変わる物ではありません。信仰歴が40年の人は御聖体が4枚で、最近洗礼を受けた人は1枚というのではありません。また、教会委員や奉仕を多くしている人は2枚で、目立った働きをしていない人は1枚というのではありません。洗礼を受けた人は誰も等しく御聖体を1枚いただくのです。それにより神様とつながり、「永遠の命」という賜物をいただいています。
 それは、12時間働いた人も1時間働いた人も同じ1デナリオンを得ることと同様です。その発想が神の御心なのであります。

 皆さん、私たちは、だれも能力や効率によらず1デナリオンという神様からの恵みをいただいています。それは「永遠の命」という賜物です。私たちにはイエス様という希望が与えられています。ですから、本当の愛を生きることができるのです。そして、常識では考えられない気前のよい神様を信じているのですから、御心に応えて神様と共に歩んでいくことが求められていると思います。 
  私たちは、慈しみあふれる神様の恵みに感謝し、「すべての人を救いたい」という神様の思いを成し遂げることができるよう、私たちも共に歩むことができるよう、祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン