マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 聖餐式 『洗礼により神とつながり、イエス様の弟子として歩む』

 本日は顕現後第1主日・主イエス洗礼の日です。新町の教会で今年最初の最
初の聖餐式を捧げました。聖書日課イザヤ書42:1-9・使徒言行録10:34-38・ルカによる福音書3:15-16、21 -22 。
 説教では、洗礼の意味をつかみ、神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいくことができるよう祈り求めました。ピエロ・デラ・フランチェスカの「キリストの洗礼」の絵を用いて、イエス様が民衆と一緒に洗礼をお受けになられたことを示しました。また、「祈る」と訳されたギリシア語「プロセウコマイ」について思い巡らしました。

   『洗礼により神とつながり、イエス様の弟子として歩む』

 <説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、新年おめでとうございます。
 本日は教会の暦では、顕現後第1主日・主イエス洗礼の日です。
 顕現日(カトリック日本キリスト教団では公現日)は1月6日で、英語やフランス語ではEpiphanyといい、もとのギリシア語「エピファネイア」は「出現」を意味する語です。英語のappearなどの語源です。顕現日は、異邦人であった博士(占星術の学者)がイエス様と出会ったことから、救い主がユダヤ人だけでなく、異邦人にも現れて下さったことを記念する日です。ユダヤ教では救いの対象はユダヤ人だけであると信じられていました。しかし救い主であり、神の独り子であるイエス・キリストは、公に異邦人にも現れて下さったのです。このことを感謝し、記念するのが顕現日・公現日です。
 実は、もともとは、イエス様の洗礼を祝うことが、この祝日の意図だったようです。 本日の福音書の箇所で、イエス様は、ヨルダン川で洗礼を受けられたときに、「あなたは私の愛する子」と神様によって宣言されたことにより、神の子とされて世界に現れたのだと言って、この日を顕現日としました。イエス様の洗礼を祝うことと、顕現を祝うことは同じことであったのです。
 顕現日(1月6日)が主日になるとは限らないので、その後の主日にイエス様の洗礼を祝う日を一緒にしたようです。

  今年は聖書日課のC年で、主にルカの福音書が読まれ、先ほどは3:15-16、21 -22が朗読されました。今日の箇所は2つの部分から成り立っています。人々が洗礼者ヨハネをメシアと考えた15・16節とイエス様がヨハネから洗礼を受けた21・22節です。

 今日の箇所はそれほど長くないので、それぞれ読みながら考えてみましょう。まず15節です。
『民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。』
 「メシア」(ヘブライ語)は「キリスト」(ギリシア語)と同じく「油注がれた者」の意味で、神様が遣わす救い主を意味します。「ヨハネ」はもちろん洗礼者ヨハネのことです。ヨハネの説教があまりにも力強かったので、人々はこの方がキリストではないかとさえ、思ったのでした。続いて16節です。
ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなたがたに水で洗礼を授けているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。』
 この洗礼は私たちが受けたような滴礼でなく、浸礼です。現在、バプテスト教会がするような水に浸かるやり方です。履物のひもを解くことは、しもべが主人にすることですが、ヨハネはそれさえもできないほどキリストが尊い方であると話しています。
聖霊で洗礼を授ける」は「聖霊に浸(ひた)す」というイメージです。「火」は聖霊の力強さの象徴です。聖霊の根本的な働きは、神様と人とを結び合わせることです。キリスト教の洗礼とは単なる回心のしるし(水による洗礼)だけではなく、「人を神様に結びつけ、神の子とし、神様のいのちにあずからせる」ものだということです。

 最後に21・22節です。
『さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』
  聖霊と火で洗礼を授ける方が、なんと民衆と一緒に洗礼を受けに来られていたのです。だれも、この方がキリストであると気づかなかったでしょう。イエス様は、他の人と特に変わるところはなく、人々の中に交じっていたのです。

 この絵をご覧ください。ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵のピエロ・デラ・フランチェスカの「キリストの洗礼」です。

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 イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けていますが多くの民衆が一緒にいます。右側に、次に洗礼を受ける人でしょうか、服を脱いでいる男性がいます。左側には、洗礼の順番を待っているのでしょうか、3名の女性たちがいます。このようにイエス様は多くの民衆と一緒に、人々の中に交じって洗礼をお受けになられたのです。それはイエス様が民衆と一つに結ばれて救いの道を共に歩み出すためです。
 そして、イエス様が祈っておられると聖霊が鳩のように目に見える姿でイエス様の上に降って「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえます。

 この「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声の背景には、第1日課で読んだイザヤ42章1節以下があると考えられます。1節の最初だけ読んでみます。「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。」
 「主の僕の召命」と呼ばれる箇所です。これは神様の特別な愛を表しています。特別な愛とは、多くの者から特定の者を選び出す愛です。ルカの22節の「愛する子」という言葉には、イエス様が神の子として、特に選ばれた主の僕としての使命を生き始めることが示されていると考えられます。
 「あなたは私の愛する子」 
 この言葉は、私たちすべてに向けて語られている言葉だと言えます。私たち自身の洗礼はこのことを意味しています。
  洗礼とは、神様とつながり、それを受ける者が、神様の愛される子、神様のみ心に適う者であることが、はっきりと示されることです。
  また、洗礼は主イエス様を信じ聖霊を受けることとも言えると思います。

 今回、この箇所を読んで気になった言葉がありました。
 それは21節の「イエスも洗礼を受けて祈っておられると」というところの「祈っておられると」という言葉です。ここは原文のギリシャ語では「プロセウコマイ」の現在分詞形で動作の継続を表し、直訳すると「祈りつつ」となります。 「プロセウコマイ」は、「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、では「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分自身を」ということではないかと思います。つまり、「祈る」とは「神様の前に自分を置く」ことなのであります。ちなみに、似たような言葉の「願う(パラカレオー)」は主としてイエス様に向けられますが、「祈る(プロセウコマイ)」は神様に向けられています。「祈り」とは神様との関わりを求めることであり、この箇所では、イエス様はいわば民衆を代表して神様との交わりを求めていると言えます。

 ところで、本来、洗礼は、私たち罪人が神様から離れている罪の状態から神様の方へ向きを変えることと見なされています。であれば罪のないイエス様が洗礼を受ける必要はないはずです。そのイエス様が洗礼を受けたということの意味については、私たちに見本を示したということだけでなく、イエス様がこの洗礼をきっかけに福音を宣べ伝えるという公生涯に入ったということを考えると、イエス様もまた神の祝福を受けずに出発することはできなかったということではなかったか、と思います。神の恵みを受けるということが目に見える形で表わされる洗礼を、どうしても受ける必要があったのだと思います。イエス様ですら神の恵みを受けることなくしてその活動を始めることはあり得なかった、ということを思えば、イエス様の弟子であろうとする私たちも、また洗礼を受ける必要があるということではないでしょうか?
 キリスト者(クリスチャン)は、ギリシャ語では「クリスチアヌス」で、ギリシャ語辞典を引くと、「キリストに組する者・キリストに従う者」とありました。キリスト者(クリスチャン)であろうとするなら「キリストに組する者・キリストに従う者」として、イエス様がされたように洗礼を受けることが重要なのだと思います。
  
 教会の暦は顕現節に入りました。イエス様が、この世に姿を現され、様々な業(わざ)をなさったことを記念する期節です。その顕現節の第一主日であり、また主イエス洗礼の日である本日、神様の働きが、具体的で、見て分かるかたちで行われる、というその神秘と深みとを皆さんと共に分かち合い、神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいきたいと思います。
 では、神様とつながるためには何をすればいいでしょうか?
 私はそのためには、聖書を読み、祈りに努めたいと思っています。 
 皆さんも日々聖書を読み祈ることで神様とつながることをお勧めします。また、信仰の表現として日々の生活を奉仕として行うこともお勧めします。
 そして、このように礼拝のため教会に来ることも「祈り」であり、神様の前に自分を置き、神様とつながることになるのだと思います。
 
 私たちの教会では昨年、11月14日にF・K姉が洗礼を受けました。神様とつながる大きな絆が「洗礼を受ける」ということとも言えます。
 顕現後第一主日、そして主イエス洗礼の日である本日、洗礼の意味を再確認し、神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。