マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎始日(灰の水曜日)礼拝 『隠れた神と心を合わせる』

 本日は大斎始日です。前橋の教会で「灰の水曜日の礼拝」を捧げました。
 聖書箇所は、ヨエル書2:1-2、12-17とマタイによる福音書6:1-6、16-21。大斎始日に灰の十字架のしるしを額にし、大斎節に善行と祈りと断食をする意味を知り、隠れた神と心を合わせ、大斎節をみ心にかなうように過ごすことができるよう祈り求めました。

 大斎節の始めにちなみ、北関東教区と東京教区が合同で制作した黙想集を活用したり大斎克己献金に励むことにも言及しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎始日です。大斎節の始まりの日です。そして、「灰の水曜日」とも言われる祝日・斎日です。年間で2つある断食日(もう1つは受苦日)です。古くは大斎節の始まる日、信徒は罪を悔いたしるしとして粗布をまとい、灰をかぶる習慣がありました。それが「灰の」水曜日の由来です。
 大斎節とは何でしょう? 大斎節というのは、灰の水曜日から復活日の前日(聖土曜日)までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)を言います。ポスター等にありますとおり、今年は本日、2月22日から4月8日までです。この大斎節は、イエス様の荒れ野での試練に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという「悔い改めと反省の期間」という意味があります。イースター(復活日)を迎える準備の時でもあります。
 大斎の「斎」という日本語には本来「物忌み」の意味があり、「神事を前に酒や食事などの欲を絶ち、身を清める」ときに使われた言葉なので、断食や節制を指す訳語として用いられたようです(ちなみに「書斎」というのは「いろいろなものを断って、書き物のためにこもる部屋」の意味)。ただし、キリスト者の断食や節制には、単に身を清めるというだけでなく、主イエス様の受難を思い、神への信頼と人への愛を深めるという意味があることは大切であります。
  この礼拝式文の最初の「勧め」にもありますように、初代教会では、この期間はその年の復活日に洗礼を受ける人や教会の交わりに回復される予定の人々によって守られてきました。そして、8世紀から10世紀にかけて、この40日間を、洗礼志願者のみでなく全会衆が大斎節として守ることとなり、悲しみと悔い改めを表すため、初めの日に、前年のしゅろの主日(復活前主日)に渡されたしゅろを燃やした灰を、聖職と信徒の額に付ける習慣ができたようです。
 大斎節は信仰の業の励行に留意します。主イエス様の生涯とその苦難に思いを馳せながら、自らを省みながら、深い祈りの時を持ちます。
 北関東教区と東京教区が合同で制作した「み言葉と歩む大斎節~黙想の手引き~」を活用するのも一つの方法です。

 また、節制によって手許に残ったお金を特別な献金(大斎克己献金)として捧げ、教会や、その他助けの必要な人々のために用います。従前から行われているように、大斎節の間この袋を見やすいところにかけ、折に触れおささげすることもお勧めします。

 さて、本日の聖書日課は、毎年共通です。先ほどお読みしました福音書箇所は、マタイによる福音書の6章からで、「善行、施し、祈り、断食は父なる神にのみ知られるように」との箇所です。旧約聖書はヨエル書2章からで「断食をして主に立ち帰れ」と述べています。
 本日は先に旧約聖書を見たいと思います。
 ヨエルの預言で主は言われます。2章12節から13節です。 
「心を尽くし、断食と泣き叫びと嘆きをもって 私に立ち帰れ―主の仰せ。あなたがたの衣でなく心を裂き あなたがたの神、主に立ち帰れ。」と。
 大斎節は悔い改めのときです。悔い改めはギリシャ語では「メタノイア」で、回心とも訳されます。大斎節は回心のときです。回心とは心を主なる神様へ向けなおすことです。神様は心からの悔い改めを求めておられます。
 聖書を読むとたびたび「衣を裂く」という表現に出会います。強い心の動きを表す動作を示しているようです。ヨエル書の言う「衣でなく心を裂き」という表現は、見せかけではない心からの回心、心から悲痛な思いで神に立ち帰ることを意味していると考えられます。  
 
 本日の福音書はマタイによる福音書6章1節以下で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」というイエス様の教えです。イエス様は、人の「偽善」を咎(とが)めています。3節で「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とイエス様は教えています。  
 ここでは、当時のユダヤ人にとって宗教的な3つの行い、施しと祈りと断食が大事であることが述べられていますが、大斎節の始まりにあたってこのことを意識することは大切であると思います。イエス様がこの3つをする時に、隠れて行いなさいとおっしゃる。施しにしろ祈りにしろ断食にしろ、隠れてしなさいとイエス様は強くおっしゃっておられます。
 なぜ、隠れてしなければならないのでしょうか? それはここに書いてある理由もそうですが、神様自身の働きが隠れておられるからとも言えます。神様も私たちのために働いておられ、神様も私たちのために祈っておられ、十字架につけられるイエス様の最後の態度ですが、神様は私たちのために犠牲をささげられたのです。イエス様が私たちに施し、つまり恵みを与えてくださる。神様自身が隠れたかたちで働いておられる。だから私たちが隠れて施しや祈りや断食をするということは、隠れた神様に倣うということと言えるのです。私たちが隠れている神様の心に合わせて、施しや祈りや断食をする。つまり神様と心を合わせて行うことに意味があると言えます。それこそが、「宝を天に積むこと」になるのだと考えます。

 ところで、本日の礼拝では、この後の嘆願に続いて、一人一人の額に棕櫚を燃やした灰で十字架のしるしを刻みます。どうして額に灰の十字架のしるしをするのでしょうか? 十字架のしるしをするときの言葉はこうです。
「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい」
 この前半の「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。」は、「エデンの園の木の果実」を取って食べたアダムとエバに言われた神様のみ言葉(創世記3:19)です。アダムとエバが「エデンの木の果実」を取って食べたことは蛇の誘惑のせいでした。しかしこの蛇の誘惑は人間の欲望を引き出しています。すなわち、人間が自分の欲望を満たすために神様のみ言葉に背いたのです。エデンの園から追い出されたことも、自分の欲望を満たすために、エデンの園で生きていくことができなくなったのです。私たちもこのアダムとエバの遺伝子を受け継いでいます。私たちはちりにすぎないのです。そして、私たちはみな、どんなに長生きしようとも、いつかは必ずちりに帰らなければなりません。この世の命は有限であること、そして自分が死せる存在であることを直視することが、神様と向き合うための初めの一歩です。「私たちはちりにすぎず、必ずちりに帰らなければならない存在である。だからこそ神に立ち帰り、キリストに従うことが大切なのである。」このことを体に、心に刻むために額に灰の十字架のしるしをするのだと言えます。 

 さらに、大斎節は、イエス様が荒れ野で40日間、断食し祈られたことをおぼえます。イエス様はなぜ荒れ野に行き、なぜ断食されたのでしょうか? 荒れ野は、水もなくて食べ物もありません。昼は暑く、夜は寒い所です。イエス様はそういう所で人間としての限界を感じられたことでしょう。そして「人間は、ちりであるから、ちりに帰らなければならない」ということを悟ったでしょう。淡々とした日常生活を続けるだけでは、このような悟りを得ることは難しいでしょう。そうだとすれば、私たちもこのような悟りのために、荒れ野に行かなければならないのでしょうか? そのようなことができれば、それが一番良いでしょう。しかし、誰でもそのようにはできません。それで初代教会は日常生活を続けながら荒れ野を体験することができる方法を用意しました。それがまさに断食と節制、祈りと善行です。 
 善行とは、貧しい人への施しを指します。祈るときは、「奥の部屋に入って戸を閉め」なさいとイエス様はおしゃっています。ユダヤ人は通常、神殿や会堂で立って手を挙げ、人前で祈っていました。人に見られるために祈るのは間違っていると、イエス様は言っておられます。断食については、ご自分の健康の状況等に即して実践してほしいと思います。 

 皆さん、イエス様は「善行と祈りと断食を形式的にしてはいけない、他人に見せるためにしてはいけない」と命じておられます。私たちキリスト者・信仰者の人生は他人に見せるためにあるのではありません。私たちが善行と祈りと断食などの行いを、隠れた神様と心を合わせてすることに本当の意味があるのです。
 本日の代祷で、ウクライナの平和やトルコ・シリア大地震についても祈りますが、一人一人の個人的な思いと共に世界で起きている戦争や災害等にも思いを馳せ、神様による癒やしと解放を求めながら、隠れた神様と心を合わせて、善行と祈りと断食などをこの40日間行っていけると素晴らしいと思います。
 この大斎節を神様のみ心にかなうように過ごしていくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。