マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『キラキラ牧師のキラキラメッセージ(福田司祭)』

 いのちのことば社のホームページの「キラキラ牧師のキラキラメッセージ」に出演しました。前橋聖マッテア教会の4つのステンドグラスから黙想し語りました。以下のURLです。よろしければ映像をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tzWLI0VQaRU&t=72s

このメッセージの原稿を以下に示します。
「聖書を読み、思い巡らし、祈る」

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 ぶんでんチャンネルをご覧の皆さん、こんにちは。
 私は日本聖公会の司祭で、前橋聖マッテア教会牧師のマルコ福田弘二と申します。今日は、前橋聖マッテア教会の聖堂にありますステンドグラスから黙想し、自分の証とも絡めながらメッセージをしてみたいと思います。
 最初に、簡単な自己紹介をします。私は現在68歳ですが、60歳の定年まで公立の小中・特別支援学校の教師として38年間務め、退職してから神学校に入って学び、2018年に執事、2019年に司祭に按手(叙階)された者です。前橋聖マッテア教会には2020年4月から牧師として聖務を行っています。もう一つの教会の管理牧師と認定こども園のチャプレンもしています。
 
 では、ステンドグラスを見ていきましょう。今回は4つのステンドグラスの絵を取り上げたいと思います。聖堂の後ろの洗礼盤の上の3つのステンドグラス、右から「受胎告知」「クリスマス」「イエスの洗礼」と、

聖堂正面の祭壇の上のステンドグラス「復活のイエス」です。

 

    まず、聖堂後ろの右側のステンドグラス「受胎告知」をご覧ください。  
    天使ガブリエルから「神の御子を身ごもる」と伝えられた年若く未婚のマリアは驚き戸惑いますが、最後には「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)と答えた場面が描かれています。神が共にいてくださり、マリアが神を信じていたからそう言えたのでした。
 当教会のステンドグラスやフラ・アンジェリコが描く受胎告知を受けるマリアは、腰をかがめて両手を重ねています。この仕草は、相手を敬い、相手に同意するという意味があります。これはマリアの神への従順を表しています。自分が取るに足りない「主のはしため(奴隷)」であることを認めることで「この身になりますように」、英語で「Let it be」と宣言できたのだと考えます。ちなみに、ビートルズポール・マッカートニーはこの御言葉から名曲「Let it be」を生み出しました。
 私たちがなすべきことは、マリアが天使に言った言葉「おことばどおり、この身になりますように」、英語の聖書(NRSV)では「Let it be to me according to your word.」のように、主の御言葉に聞き従うことではないでしょうか?

 

 続いて、真ん中のステンドグラス「クリスマス(イエスの誕生)」です。

    馬や牛のいる家畜小屋で誕生したイエス様をマリアが抱き、ヨセフが手を合わせて礼拝しています。おそらく羊飼いたちや三人の博士が訪問し、礼拝した後のシーンであるように思われます。
 私はこう思います。羊飼いたちはイエス様たちをご覧になり、あまりにみすぼらしかったから自分たちの持っている物、食料や毛布などをお捧げし、分かち合ったのではないだろうかと。ステンドグラスの右下にふたの開いた箱が描かれていますが、それは羊飼いたちや三人の博士が差し上げた物が入っているのではないかと私は思うのです。
 さらに、私が注目したいのは、誕生したイエス様を最初に礼拝しに来たのが羊飼いたちであり、イエス様の誕生を伝えた天使の話などを聞いて、「マリアは、これらのことをすべて心に納めて、思い巡らし」(ルカ2:19)たということについてです。
 ここで「心に納める」と訳されたギリシャ語は「シュンテーレオー」です。この語は「共に」を意味する「シュン」と、「守る」を意味する「テーレオー」の合成語です。マリアはイエス様と一緒に、イエス様と共に、心に納め守ったのです。また、「思い巡らす」と訳されたギリシャ語は「シュンバロー」で、こちらも「共に」を意味する「シュン」と、「投げる」を意味する「バロー」の合成語です。それは、本来、「共に投げ合う」ことを意味し、論じ合ったり、助け合ったりすることであり、そこから派生して、「(心の中で)じっくり考える、熟考する」といった意味にもなりました。マリアは一人で思い巡らしたのではなくイエス様と一緒に、イエス様と共に、じっくり考えたのでした。 
 「神の言葉を心に納めて、思い巡らす」、このマリアの姿勢こそ私たちが人生を歩む上で基本的姿勢とすべきものではないでしょうか?  そしてそれを一人で行うのでなく、イエス様と一緒に、イエス様と共に行うのであります。

 

 続いて、左側のステンドグラス「イエスの洗礼」です。

  民衆に混じって洗礼者ヨハネによって洗礼を受け、祈っているイエス様の様子が描かれています。ルカによる福音書3章21-22節にこうあります。
『さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』
 イエス様は公生涯を始めるに当たって、洗礼をお受けになりました。すると父なる神様は、イエス様に対して、「あなたは私の愛する子だ、あなたは私の喜びだ」と言われました。この声は、私たちすべての人間に向けての、神様の心と言っていいと思います。洗礼という出来事を通して、私たちすべての人間が「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と言っていただけるのです。私たちもキリスト者としての人生の始まりに洗礼を受けることは神様の喜ばれることであり、私たちが「神の愛する子」とされることを表していると考えます。

 

 最後に、聖堂正面の祭壇の上のステンドグラス「復活のイエス」をご覧ください。

 この絵が表しているのはヨハネによる福音書 20章 19-20節と思います。復活したイエス様が弟子たちに現れた場面です。こうあります。
『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。』
 ここの「平安があるように」のギリシャ語原文は「エイレーネー(ヘブライ語では「シャローム」)」であり、「シャローム」はユダヤ人の日常の挨拶の言葉で「平和があるように」とも訳せる言葉です。シャロームの意味する平和とは、戦いや争いのない状態というより、「神が共におられる」、そうした安らぎの状態を意味します。恐れや苦しみの中にあっても、神が共におられるという平安がイエス様によって示されたのです。この言葉が復活したイエス様の弟子たちへの第一声でした。裏切った弟子たちに対する恨みの言葉ではなく、安らぎを祈る言葉だったのです。そして手と脇腹を見せ、自分が十字架に付き復活したイエスであることを示しました。弟子たちの安堵と喜びはいかばかりだったでしょうか?
 この場面を描いたマッテア教会のステンドグラスでは、イエス様の右の掌にはっきりと釘の傷跡が記されています。
 イエス様の傷跡に関しては、イザヤ書53章5節にこうあります。
『彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。』
 イエス様の受けられた傷によって、私たちに平安と癒しが与えられたことを思います。私にはこのステンドグラスのイエス様の右の掌の傷が輝いて見えるのです。

 そして、ある時、私はこの聖堂で、「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を終えて黙想しているときに、こんな声が聞こえたような気がしました。それは「傷も賜物だよ」という声でした。
 このことで私には思い当たることがあります。
 私は26歳の時、1981年のイースターに洗礼を受けました。信仰歴は42年になります。キリスト教との出会いは入学した大学が、たまたまキリスト教主義学校だったことです。卒業後、群馬県の山間部の小学校に赴任し3年を過ごし、そこではなんとか務めることができました。しかし、その後、都市部の中学校の教師になった時、その学校がかなり荒れていてどう対応したらいいか悩み、同僚の教師からは「もっと厳しく指導すべきだ」と言われました。生徒にも教師にも傷つけられ、ついには学校に行けず、不登校のような状態にまでなってしまいました。そんな折、大学で受けたキリスト教教育を思い出し、それこそが真実の教育であると思い、もっとキリスト教を知りたいと考え、出身大学と同じ聖公会の教会の門をくぐりました。それがアドベントの頃で、通って行くにつれ癒され希望が見えてきました。そして次の年のイースターに洗礼を受けました。それ以降、「イエス様の教え、キリスト教精神で生徒たちに接しよう、教育に当たろう」と考え、実践し、60歳の定年まで勤めることができました。
 生徒にも教師にも傷つけられ、苦しかったのですが、その傷のゆえに教会に通うようになり受洗し、さらに今は聖職として聖務を果たしています。まさに「傷も賜物だ」と思います。

 今、ぶんでんチャンネルをご覧の皆さんも、何かの傷を受け苦しんでおられるかもしれません。しかし、それは神様から与えられた「賜物」なのかもしれません。イエス様も傷を受けられたのです。
 皆さん、私たちが傷を傷で終わりにせず、賜物とするにはどうしたらいいでしょうか? それは、受胎告知のマリアのように日頃から聖書を読み主の御言葉に聞き従い、イエス様誕生の時のマリアのように神の言葉をイエス様と共に心に納め思い巡らし、洗礼の時のイエス様のように祈ることから得られるのではないでしょうか?
 皆さんには、ぜひそのように人生を送ってほしいと思います。どうか、聖書を読み、思い巡らし、お祈りすることをお勧めいたします。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン