マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第3主日聖餐式 『イエス様とサマリアの女』

 本日は大斎節第3主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、出エジプト記 17:1-7 とヨハネによる福音書4:5-26、39-42 。イエス様は私たちの中にある魂の飢え、乾きを満たすことができ、永遠の命の水を与えようとしておられることなどを知り、イエス様に聞き、その命の水を人に与える働きができるよう祈り求めました。
 大斎節中の黙想として読んでいる「み言葉と歩む大斎節~黙想の手引き~」も引用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は大斎節第3主日です。大斎節は本来、復活日に洗礼を受ける求道者のために設けられた期間でした。成人の洗礼は復活徹夜祭に行うのが初代教会以来の慣習であり、今もカトリック教会では、イースターの前日夕方に洗礼式を行っています。
 本日の福音書ヨハネによる福音書4章5節からで、「イエス様とサマリアの女」の箇所です。この物語は復活日の洗礼に向けて選ばれています。この箇所では、この出来事を通して「イエス様こそが命の水の与え主である」ことが示されます。そして、この物語は2000年前のどこかの誰かの物語ではなく、「復活して今も生きているイエス・キリスト」と私たちとの出会いに気づかせるための物語だということもできると思います。旧約聖書福音書に対応し、エジプト脱出後に荒れ野でのどが渇いた民の不信仰に対して、岩から「水」が出て人々が飲めた物語が採用されています。
 本日の聖書の箇所を通して、神様は私たちに何を教えようとしているのでしょうか? 
 
 福音書を中心に考えます。本日の福音書の箇所を考える上では、当時の時代背景等を知る必要があります。イエス様の時代、この地域は、北から順に、ガリラヤ、サマリアユダヤという3つの地域に分かれていました。この時代は、その地域に住む人たちの間には、大きな差別意識がありました。
 本日の福音書の舞台はシカルというサマリア地方の町です。サマリアは、紀元前926年にイスラエルの王国が分裂したときの北王国の首都です。北の人々は、エルサレムを中心とする南のユダ王国と対立し、ゲリジム山に独自の聖所を持ち、後にサマリア人として民族的にもユダヤ人と分かれていました。この物語の背景には、このような民族の間の対立があります。エルサレムか、ゲリジム山か、という礼拝の場所の問題は、ユダヤ人とサマリア人を隔てる大きな問題でした。北王国は、紀元前722年、東から攻めてきたアッシリアの国に北イスラエルが敗れ、北王国の都サマリアは滅ぼされました。さらにアッシリアの政策で、この北のイスラエル一帯に異民族を住まわせ、結果混血が進み、アッシリアの神を祭り偶像崇拝を強制しました。エルサレムを中心に王国を保っている、南のユダの人々から見ると、もはや、同じアブラハムヤコブの子孫とも思えない、憎しみと反発が起こりました。
 700年も遡って反目し差別しあう、南のエルサレムを中心とするユダヤ人と、かつての北イスラエル王国の地に住むサマリア人との間にこのような歴史的な背景と社会的な状況があったのです。

 本日の福音書の中身を見て参ります。概略はこのようです。
 シカルというサマリアの町に、ヤコブの井戸がありました。イエス様は旅に疲れて、井戸のそばに座っていました。正午頃、そこへあるサマリアの女が水を汲みにきました。イエス様はその女性に「水を飲ませてください」と言いました。サマリアの女は驚きました。なぜなら、ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからです。イエス様はその女性に言いました。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。」と。
 サマリアの女はイエス様の話に心を奪われます。イエス様はさらに、その女性のことを言い当てます。驚いた女性は、イエス様が救い主であると気づきます。その女性は町で、サマリア人たちに「この人は自分のことを言い当てた救い主である」と説明しました。イエス様は二日間、その町に滞在し、その間に、サマリア人たちは、イエス様を信じるようになりました。このようなお話です。 
 まず、考えたいのはイエス様がユダヤからガリラヤへ行く時にサマリアを通られたということについてです。ユダヤ人はたいてい、サマリアを通らずに、ヨルダン川の東側の道を迂回して、ユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していました。サマリア人ユダヤ人の間には深い敵対心があり関わり合いがありませんでした。ですから、イエス様がサマリアを通られたというのは、サマリアユダヤガリラヤの中間に位置していたからではなく、神様がある特別な目的のため、つまりイエス様を一人の女性と出会せるためにそうされたと考えられます。
 次に考えたいのは、その女性が正午頃、水を汲みにきたということの意味です。当時、水汲みは女性の仕事でした。日差しの強いこの地方では、通常女性たちは昼を避け朝や夕方に水汲みに集まり、そこで多くの女性が集まり、文字通り井戸端会議のようになっていたと考えられます。「正午ごろ」水を汲みに来たこの女性は、他の女性たちと顔を合わせたくなかったのだと思います。それは、「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」という家庭事情から来るものでしょう。5回結婚をしたが、何らかの事情があって、5人の夫と、死に別れたか、離婚したか、いずれにしても幸せな家庭生活を続けることができなかった。今も連れ添っている人がいるが正式の夫ではない。そういう事情で、人目をはばかって正午頃に水汲みに来ていたのだと思います。
 この女性は「なぜ、わたしはこんなに不幸なのだろう」と、思い悩んでいたかもしれません。「自分なんかどうでもいい」と人生を投げやりに思っていたかもしれません。すくなくとも「私は取るに足りないものだ」というふうに思っていたに違いありません。
 そういうこのサマリアの女に、イエス様は、「水を飲ませてください」と言われました。この女性はどんな気持ちだったでしょうか? 驚き、考えられないこととしてこのように言ったのだと思います。9節です。
 「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」
 ユダヤ人とサマリア人は敵対し合っていて、また、ユダヤ人の男性が自分の妻でない女性と親しげに会話することも考えられないことでした。それなのにイエス様は生まれや性別や家庭事情等を問わず、『水を飲ませてください』と語りかけました。つまり、『あなたにお願いがあります』と伝えたのです。これは、『私にはあなたが必要です』という主の御心です。

  そして、イエス様は言われました。10節です。
 「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」
 それは、「あなたは、私が誰かということが分かっていれば、あなたの方から『生ける水』をくださいと言うに違いない」ということでした。
 そのあと、いくつかのやりとり、すれ違いの会話もありましたが、結論として、イエス様はこう言われました。13・14節です。
「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
 つまり、のどの渇きを癒す水ではなくて、「永遠の命に至る水」、もはや決して渇くことのない命の水があることを示され、それをイエス様は与えることができるとおっしゃったのです。
 イエス様の言葉に次第に心が動かされた女性は、15節で「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」と願います。

 その後、イエス様は、突然、この女性の夫のことを話題にします。16節以下です。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と。
 この女性は、「私には夫はいません」と、答えました。
 すべてを御存知のイエス様は女性と対話を続けられます。「『夫はいません』というのは、もっともだ。あなたには五人の夫がいたが、今、連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」  
 イエス様は、この人の抱えている、もっとも大きな問題、誰にも言えないような重荷を言い当て、それをまっすぐに見据えたのです。それは言い換えれば「あなたは、救われたいのでしょう」ということです。
 その次に、何が起こったのでしょうか。19節です。
 この女性は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。イエス様に向かって、こう告白をしました。この人こそ、自分に救いをもたらしてくれる人ではないかと思ったのではないでしょうか。
 その後、サマリア人ユダヤ人の間で、いちばん問題になっている「礼拝する場所」のことを語り始めました。そして、最後に、女性は言いました。25節です。
 「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」  
 イエス様は言われました。26節です。「あなたと話をしているこの私が、それである。」
 それは「私がメシアだ」「私がキリストなのだ」ということです。
 その後、このサマリアの女の人は、町に行き、人々にイエス様のことを知らせました。イエス様に出会った彼女はこうして、人々にキリストの福音を宣教する者となりました。
 最後に、この女性に導かれたサマリア人たちが言いました。42節です。
「彼らは女に言った。『私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからである。』」
 これは、聞いて分かったから、これが本当の私たちの拠り所だということです。それを大事にしたいと思います。つまり、イエス様から聞いて分かる、ということです。
 
 主は、私たちにも愛を込めて、決して渇くことのない永遠の命の水を与えようとしておられます。イエス様こそ私たち一人一人の心の奥底にある魂の飢え、乾きを満たすことができる方であること、そして、その方に聞くことが大事だということを、神様は今日の聖書の箇所で私たちに教えようとしているのではないでしょうか?
 どうすればイエス様から聞くことができるでしょうか? それは祈りと御言葉を読むことからなされると考えます。そのためには、大斎節の今であれば、この黙想集、「み言葉と歩む大斎節~黙想の手引き~」を毎日読み進めることをお勧めします。

 ちょうど、本日、12日はサマリアの女に関する私の文章です。

 冒頭、「イエスサマリアの女」の物語が復活日の洗礼に向けて選ばれた箇所と話しましたが、私自身の洗礼の時(26歳の頃)も、すべてを御存知のイエス様が魂の飢え、乾きを満たしてくださったことを思い出しました。そして、洗礼の時だけでなく、今もイエス様は決して渇くことのない永遠の命の水を与え続けておられます。イエス様を信じ信頼するとともに、イエス様に聞き、今度はその命の水を人に与える働きができるようにと願います。  
 「サマリアの女」は私たちの中にもいます。イエス様から命の水をいただき、私たちも優しさの泉になれますように、祈り求めたいと思います。