マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第5主日 聖餐式『仕えることと祈ること』

    本日は顕現後第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書40:21-31、詩編147:1-11、20c、コリントの信徒への手紙一9:16-23、マルコによる福音書1:29-39。 
 説教では、シモンのしゅうとめの癒やしと宣教の箇所から「人々に仕えることと神に祈ること」の必要性を理解し、イエス様に倣い、人々に仕え神に祈るよう勧めました。
 本日のテーマと関係する私の県庁勤務時代のことや十字架の意味等についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 能登半島地震の発生から1ヶ月以上が過ぎました。亡くなった方は240人を超え、避難している方々は1万4千人を超えています。テレビで連日報道していますが、先日は地震で奥さんとお子さん3人を亡くした方が出ていました。ご自宅に骨壺が4つ並び「どうしてうちに、こんなことが?」と言う言葉に目頭が熱くなりました。別の男性は奥さんと母親を土砂災害で亡くし、崩れた家から家族の写真や奥さんの携帯を探してました。「1月1日から時間が止まっている」とその方はおっしゃっていました。言葉が詰まりますが、私たちにできることは何なのか、考えていきたいと思います。

 さて、本日は顕現後第5主日です。福音書の箇所はマルコによる福音書1章29節から39節です。使徒書はコリントの信徒への手紙一9:16以下で、福音を告げ知らせざるを得ないパウロが、そのために「すべての人に対してすべてのものになる」という宣教姿勢を述べ、福音書にも通じる箇所が選ばれています。
 今日の福音書の内容は、大きく2つの部分からなっています。イエス様の2つの活動、癒しについて(29-34節)と宣教について(35-39節)が記されています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「多くの病人を癒やす」と「巡回して宣教する」となっています。この箇所を解説を加えて振り返ります。

 まず、話の前半です。
 イエス様と弟子たちはシモンとアンデレの家に行きました。するとシモン・ペトロのしゅうとめが熱を出して寝ていました。ペトロは結婚していて義理の母(彼の妻の母)と同居していたようです。ペトロは後に初代ローマ教皇といわれますが、その彼が結婚していたのですね。シモンのしゅとめが病気であり、人々は早速、彼女のことをイエス様に話しました。31節にこうあります。
「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は引き、彼女は一同に仕えた。」
「手を取って起こされる」というイエス様の動作は印象的です。イエス様の手を通して、イエス様の愛と力と慰めが彼女の中に入ってきて、彼女を起き上がらせました。そのとき、彼女はただ体調が回復したというだけではなく、深くイエス様を信頼し、「この人のためなら何でもして仕えよう」という気持ちになったのではないでしょうか? 
 この「仕える」はギリシア語で「ディアコネオー」です。これまでの新共同訳や口語訳の聖書では「もてなす」と訳されていました。この語は文字通りには「食卓で給仕する」ことを表し、さらにあらゆる奉仕を表し、「仕える」の意味になります。この箇所では、イエス様から癒されたシモンのしゅうとめに使われました。ここはまずは「食卓で給仕する」の意味でしょうが、救いに招かれたキリスト者の根本姿勢としての「仕える」という意味も含まれ、聖書協会共同訳ではそちらの意味をとったと考えられます。ちなみに、この動詞は未完了形でした。ギリシャ語の未完了形は、動作の継続・反復を現します。ペトロのしゅうとめは、継続してもてなし、仕え続けたのです。 
 そして、夕方になると、人々は「病人や悪霊に取りつかれた者を皆」イエス様のもとに連れてきました。イエス様は大勢の人たちを癒しました。
 つづいて話の後半です。35節にこうあります。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
 寂しい所で、人知れずに祈るイエス様の姿を記すことにより、神様との深い交わりである祈りの姿を教えています。なお、ここで「祈る」と訳されたギリシャ語は「プロセウコマイ」です。この言葉は直訳すれば「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、では「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分自身を」ということです。つまり、「祈る」ということは「神様の前に自分を置く」ことであり、イエス様は父なる神様の前に身を置いたのであります。
 その後、イエス様はガリラヤ中の会堂に行き宣教したのでした。
 今日の箇所はこのような話でした。

 今日の福音では、人々の中へ出かけ多くの人を癒やし仕え宣教したイエス様の姿が記されています。しかしその一方でまたイエス様は、「寂しい所」にも出かけて行き、そこで祈りました。このどちらも、イエス様にとっては必要な場所だったのです。私たちもまたこの2つの場所が必要である、ということをイエス様の姿は私たちに教えているのだと思います。イエス様に倣う者として働き続けるために、どこまでも人の中に入って仕えること、また、だれもいない場所で、神様と向き合って祈ること、そのどちらもが必要なのだということです。

 このことで、私はかつての自分のことを思い浮かべます。私は県庁内の教育委員会で11年間勤務しました。特別支援教育の指導主事として8年、特別支援教育室長として3年です。特殊教育から特別支援教育へと変わる転換期でした。指導主事では私の大きな仕事は就学指導であり、障害のある子の学校選択についてどの学校に行くのが適切かを判断するという、重い仕事でした。室長としては新たに県立特別支援学校3校を創設し、小中学校の中、あるいは小中学校に併設して彼らとの日常の交流を図りたいと考えていました。新しい教育の流れ、児童生徒の実態や保護者の思いを受け止めること、関係部局との調整等、様々な困難や思い煩いがありました。県庁に勤めていた11年間、昼休みや仕事帰り等に近くのこのマッテア教会に寄り、聖体訪問を何度もして、聖堂の中で一人神に祈る時間を多く持ちました。就学前の障害児施設を訪問したり、新たな特別支援学校創設のため可能性のある市町村の小中学校に出向きました。人々の中に出て行き、それと共に平日の聖堂という「寂しい所」にもよく出かけて行き、そこで祈りました。イエス様がされたように、人の中に入って仕えること、それと誰もいない場所で、神様の前に身を置いて祈ること、そのどちらもが必要であり、それにより、主の御心から大きくは離れない判断、行動ができたように思っています。

 そして、今、私はそれが十字架の意味するところではないかと考えています。オールター(祭壇)の十字架をご覧ください。

 十字架は左右の横の線と上下の縦の線が交わっています。水平に伸びた横の線は地上の人と人のかかわりで「仕えること」、上に向かって伸びている縦の線は人と神様とのかかわりを表し「祈ること」を示しています。この2つはどちらも大切であり、切り離されることなく一体であることを十字架は示しているのだと考えます。

 冒頭お話しした能登半島地震でも、十字架を見つめ、仕えることと祈ることを心がけたいと思います。
   
 皆さん、本日の「シモンのしゅうとめの癒やしと宣教」の箇所は、人々の中に入り仕えることと神様の前に身を置いて祈ること、そのどちらも必要であることを示しています。私たちは人々の中で多くの人を癒やし仕え、また寂しい所で神様に祈ったイエス様に倣い、人々に仕えると共に、日々の生活において心静かに神様に祈るよう心がけて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン