マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第10主日 聖餐式 『イエス様が投じる信仰の火』

 本日は聖霊降臨後第10主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヘブライ人への手紙 12:1-7、11-14とルカによる福音書12:49-56。イエス様に目を向け、イエス様の十字架を理解し、イエス様が投げられた「信仰の火」が教会に、また私たち一人一人に燃え上がるよう祈り求めました。冒頭、新町や前橋の教会を紹介しているコミュニオン(東京教区時報)第61号も活用しました。

   イエス様が投じる信仰の火

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 先日7月24日に発行された東京教区時報のコミュニオン第61号に当教会や
前橋聖マッテア教会の紹介記事が掲載されています。その抜粋のコピーを受付に置きました。御覧いただけたでしょうか?

 さて、本日は聖霊降臨後第10主日、聖書日課は特定15です。福音書ルカによる福音書 12:49-56です。この箇所では、イエス様が地上に来たのは火を投じるためであることが語られています。そのため分裂が引き起こされ、それは家族にまで及び、「今の時を見分けること」が重要であると述べられています。また、使徒書はヘブライ人への手紙12:1以下で、パウロが弟子としての在り方、特に、イエス様を見つめることやすべての人と共に平和を追い求めることなどが求められていることを語っています。

 福音書を中心に考えます。今日の箇所(ルカ 12:49-56)は大きく2つの部分からなっています。前半部分は49-53節、後半部分は54-56節です。

 まず前半を見ていきましょう。49-53節、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「平和でなく分裂を」とありました。
 冒頭の49節はこうです。「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。」
 これはイエス様が弟子たちに語っている言葉です。イエス様が地上に来た目的、それは火を投じるためだというのです。この火は「信仰の火」であると考えられます。旧約聖書は「火」の役割を「清める力」、「識別する力」、「裁きの力」として示しています。ここでの意味はいずれも可能であり、「敵対や分裂を生じさせる燃えるような熱意」の意味とも考えられます。後半の文章、「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」は、イエス様がその「信仰の火」を、「清め、識別し、裁く火」が燃えることを望んでいることを示しています。
  続く50節にこうあります。「しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。」
 ここの「洗礼」は、イエス様は洗礼をすでに洗礼者ヨハネから受けていますので、その意味ではありません。ここでの「洗礼」は「十字架に至る苦難、十字架上の死」を指しており、しかもこの苦難は、人々の罪を贖うための苦しみであります。
 さらに「洗礼がある」「それが終わる」と訳されている言葉は、原文を直訳すると「洗礼される」「完成される」であり、それは、どちらも受動形で、神が動作の主体であることを婉曲的に示す受動形(神的受動形)と考えられます。そうであれば、イエス様の十字架を完成させるのは神様であり、そこには神様の意思が働いている、と言えます。
 51節です。「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
 イエス様が地上に来たのは、「平和」ではなく、「分裂」を与えるためだと述べています。これまでのイエス様の行ってきたこと、例えばイエス様の足を涙でぬぐった「罪深い女」に、「あなたの信仰があなたを救った。平和において(安心して)行きなさい」と言って彼女を励まし(ルカ7:50)たり、72人の弟子を派遣するときには、家に入れば真っ先に「この家に平和があるように」と告げなさいと指示している(10:5)ことから考えれば、イエス様が来たのは「平和」をもたらすためであるはずです。しかし51節では、「地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。・・・分裂だ。」と述べており、イエス様の普段の発言とは矛盾しているとも思えます。
 ここで「分裂」と訳した語は原文のギリシャ語では「裂け目・不一致」を意味し、「人間が神様から離れ人間同士の関係が分裂している状態」です。それは言い換えれば「イエス様の意図に反して起こっている人々の状態」です。イエス様が来たから分裂や裂け目が生じたのではありません。人々が気づかなかっただけで、分裂は初めから、神様と人の間に、そして人と人の間にあったのです。イエス様の到来は神様から離れた人間の姿を明らかにし、各自が自己を中心にして生きていることを暴露するのです。それをイエス様は旧約聖書ミカ書7章6節からの引用によって示しています。それが次の52-53節です。
 「今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれることになる。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと 対立して分かれる。」
 53節の「母」と「しゅうとめ」が同一人物なら、登場するのは「五人」となります。この家族間の対立は、真の光であるイエス様によって照らし出された分裂や裂け目であります。

 ここまでが前半、後半部分は54-56節です。この小見出しは「時を見分ける」とありました。ここは簡単に触れます。
 この箇所はイエス様が群衆に語った言葉です。雲が出るのを見るとき、南風が吹いているのを見るとき、「にわか雨になる」「暑くなる」とそれが示していることをあなたがたは読み取ることができる。そのことをあなたがたは知っているのに「どうして今の時を見定めることができないのか。」と、「時」を見ようとしない者たちの偽善性が指摘されています。この場合の「時」は原文では「カイロス」で、イエス様の宣教活動における「決定的な神の時」であり、イエス様到来のこの時を「救いの時」と認めない者は裁かれる、との警告と考えられます。

 今日の箇所を通して、神様が私たちに伝えようとしていることは何でしょうか? キーワードは「火」「平和」「分裂」であると思います。イエス様はこの地上に「信仰の火」を投じるためにやってきました。神様が統治する神の国、すべてが平安である真の「平和」をもたらすためにイエス様はこの世界にやってきました。それが「分裂」をもたらしました。しかし、イエス様の到来によって分裂が生じたのではありません。それはもともと神様と人、人と人との間にあったのですが、イエス様によって明らかになったのです。隠されていた家族間の分裂も明らかになります。それは神様から離れて自己中心に生きようとする人間の現実です。イエス様は分裂を明らかにします。この「分裂」を乗り越えさせるのはイエス様その人です。イエス様は、十字架という「洗礼」によって、この分裂を身に背負い、神様と人の間に平和をもたらしました。イエス様の十字架は神様と人との分裂(裂け目)を解消する架け橋です。イエス様が分裂を明らかにするのは、架け橋がどこにあるかを示すためであり、真の「平和」の源泉(みなもと)を明らかにするためなのです。

 私たちがなすべきことは何でしょうか? それは、本日の使徒ヘブライ人への手紙 12:2に「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめ」とあるように、イエス様を見つめることではないでしょうか? さらに2節の後半から3節にこうあります。「この方は、ご自身の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。」
 このことが私たちに求められていると思います。イエス様に目を向けイエス様のことをよく考えるなら、「神の国が近づいた」という決定的な「時」が来ていることに気づきます。イエス様は多くの病人を癒し、悪霊を追い出し、死者を蘇らせて、神様の力が人々の間に働いていることを示しました。イエス様が起こす数々の奇跡は「しるし」であり、目に見えない神の力を見させるものです。しかし、ある人々はイエス様の奇跡を見ても、その「しるし」が指し示す意味を読み取ることができません。それはなぜでしょうか? それは、「信仰の火」が燃えていないからではないかと考えます。イエス様に目を向け、イエス様の十字架の意味することを理解し、イエス様が投げられた「信仰の火」を燃え上がらせることが求められているのです。。
 
 私たちはイエス様をしっかり見つめ、神様の「愛の火」「信仰の火」が教会に、また私たち一人一人に燃え上がりますよう、主の導きを祈り求めたいと思います。