マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第15主日 聖餐式 『正しさに優先する愛と赦し』

 本日は聖霊降臨後第15主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、テモテへの手紙一2 :1-8とルカによる福音書16 :1-13。「不正な管理人のたとえ」から、管理人はイエス様で主人は神様であること、愛と赦しは正しさより優先していることを知り、私たちも貧しい人に施しを行うよう、愛と赦しを日々の生活の中で実践できるよう祈り求めました。「神に忠実で神に仕えること」を身をもって示した例として、祭壇のイエス様の磔刑の姿についても言及しました。

 

   正しさに優先する愛と赦し

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第15主日、聖書日課は特定20です。使徒書は、パウロが弟子のテモテに送った手紙で、そこには教会をどのようにキリストの愛で形づくっていったらいいか記されています。そして、福音書は、ルカによる福音書16章1節から13節で、この箇所は、聖書協会共同訳の聖書では「不正な管理人のたとえ」という小見出しがついています。ここでイエス様が語っている対象は弟子たちで、聖書の中でも難解なたとえ話と言えます。
 
 この箇所を説明を加えて振り返ってみましょう。
『あるところに、金持ちがいました。この金持ちは、自分の財産を管理人に預けて管理させていました。
 告げ口をする者があって、「この管理人が主人の財産を無駄遣いしている」と訴えました。そこで、主人は、この管理人を呼んで言いました。
 「お前について聞いていることがあるが、お前に任せてある私の財産は、どうなっているのだ。すぐに会計報告を出しなさい」と。
 管理人は、「どうしよう」と、あわてました。「私は土を掘る力もないし、物乞いするのも恥ずかしい。」追い詰められた気持ちの中で思いつきました。
 「そうだ、こうしよう。この仕事をやめさせられるなら、今のうちに、私を迎え入れてくれるような人たちを作っておけばいいのだ」と。
 そこで、この管理人は、主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、「私の主人にいくら借りがあるのか」と言いました。「油100バトスです。」1バトスは23リットルですから、2,300リットルです。ドラム缶11本以上です。それを聞いてこの管理人は「ここにあなたの証文があります。急いでそこに座って、50バトスと書き直しなさい」と言いました。
 また、別の人に言いました。「私の主人にいくら借りがあるのか。」「小麦100コロス借りています。」1コロスは、230リットルですから、23,000リットルになります。従来訳で100石(こく)です。「ここにあなたの証文があります。急いでそこに座って、80コロスと書き直しなさい」と。
 このようにして、それぞれの証文を書きかえてやりました。
 管理人のしたことは、すぐに主人に知られました。すると、主人はなんとこの管理人を、「おまえは賢い、たいしたものだ」と褒めたのです。
 イエス様は、この話をされてから、弟子たちに教えられました。『不正の富で友達を作りなさい。ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と。』
 こんなお話でした。

 今日の箇所が私たちに伝えているのはどんなことでしょうか?
 自分の財産を預けている管理人のこの不正な行為を、主人が褒めるなどということは通常は考えられません。勝手に証文を書き換えたら、主人の儲けがどんどん減っていくのですから。
 ここで、不正な管理人とは誰のことを言っているのか、そして不正な管理人を褒める主人とは一体誰なのかということを考えてみたいと思います。
 不正な管理人とは誰でしょうか? これに当てはまる人は、イエス・キリストでしょう。そして、それを褒める主人は誰かといったら、父なる神様であると思います。
 では、証文を勝手に書き換えるとは一体どういうことでしょうか? これはイエス様が私たちの罪を赦すということと考えられます。借金とはいったい何か? 私たちにとってはそれは罪です。イエス様が私たちの罪の借金をご自身で書き換えるということは、イエス様ご自身が私たちの罪を赦してくださっているということです。それを父なる神様が褒めておられるのです。
 よく考えてみると、「罪の赦し」というのは不正義です。正しさに適っていない不正義です。 罪に対する正しい態度は普通、罰を与えるということだと思います。大きな罪を犯した人ほど、大きな罰を与えるというのがこの世的には正しいことです。でも、イエス様は私たちが大きな罪を犯そうが小さい罪を犯そうが、何の代償もなしに罪の証文を書き換えて赦してくださっています。神様の赦しそのものを私たちに与えてくださっているのです。赦しというのはこの世的な正しさに適っていない好意だということです。私たちが正しい行いをするから神様が愛してくださるのではなく、私たちがどのようであっても愛してくださるのが神の愛です。それは英語でUnconditional Loveという、コンディションによらない無条件の愛であり、それがキリスト教の最も重要な点です。別の言葉で言えば、愛は正しさに優先するということ。愛と赦しは正しさより優先しているということです。

 私たちがなすべきことはどのようなことでしょうか?  それは9節に示されています。
「そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったときあなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
 「不正の富」とは「この世の富」のことで、「友達」とは、「貧しい人々、助けを求めている人々」をいいます。「不正の富で友達を作りなさい。」とは「この世の富を使って、貧しい人に施しをしなさい。」ということです。「富」とは「世の命」とも言えますので、「富がなくなったとき」とは「死を直前にしたとき」であり、貧しい人に施しをすれば神の住む永遠の住まいに迎え入れてもらえる、ということです。私たちがなすべきことは、この世の富(命)を使って貧しい人に施しをすることです。
 また、私たちに求められているのはどのようなことでしょうか? それは、イエス様がこのたとえ話を用いた後、最後に示された「神に忠実であること」と「神に仕えること」の2つであります。このようなことを、今日の箇所は私たちに伝えていると考えます。

 さらに言えば、「神に忠実であること」と「神に仕えること」、このことを、身をもって示したのがイエス様ご自身の十字架への道であり、磔刑の姿にほかなりません。
 この聖堂の奥にある祭壇の十字架上のイエス様をご覧ください。

 体がやや曲がり、重さによって少し沈んでいるようで、頭も下に下がっています。胴はやせ細っているのに、脚や腕はしっかりとしています。伸ばされた両腕は、なお力がみなぎり、その脚にも、地上から天上へと旅立とうとするような力が感じられます。このような姿のうちに、主イエス・キリストの神と人を仲介する働きが示されているのではないでしょうか?

 本日の使徒書のテモテへの手紙一2 :1-8の中の5-6節にこうあります。「神は、唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。この方はすべての人の贖いとしてご自身を献げられました。これは、定められた時になされた証しです。」と。
 イエス様は「神に忠実であること」と「神に仕えること」の証しとしてご自分を献げ、罪深い私たちを贖ってくださったのです。それが十字架につけられたイエス様の像が示していることであり、また、今日の福音書箇所の愛と赦しを生きている「不正な管理人」が行ったことです。

 皆さん、私たちも十字架で示された「神に忠実で神に仕える」イエス様の心を生きるようにと呼ばれています。そして、イエス様がなされた愛と赦しを私たちも日々の生活の中で実践していくことが求められていると思います。しかし、それは自分の力でできることではありません。神様のみ守りと導きによって、神様のみ力によって、実現されるものであります。 
  
 イエス様が私たちに無条件に与えてくださった愛と赦しに感謝して、神に忠実で神に仕え、貧しい人に施しを行うよう、愛と赦しを日々の生活の中で実践できるよう、祈り求めたいと思います。