マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 18主日 聖餐式『僕となった神の義を信じ行う』

 本日は聖霊降臨後第 18主日。前橋の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、フィリピの信徒への手紙2:1-13、詩編25:4-10とマタイによる福音書21:28-32。説教では、「二人の息子のたとえ話」から、僕となった神の義を信じ、自らを振り返り、神の方へ方向転換し、考え直して主の御心を行うよう求めました。
 この箇所から思い浮かんだフランクルの「それでも人生にイエスと言う」や最近天に召された姉妹によるその態度の例についても述べました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

  去る9月18日(月)にY姉、そして9月21日(木)にF姉が帰天されました。お二人とも急に召された印象は拭えません。特にFさんは連絡を受けお目にかかった翌日に逝去され、年齢も62歳であり、「神様なぜこんな早く?」と思わざるを得えません。お二人とも、心身の癒やしを祈り聖油を塗る「塗油」をすることができたのは、慰めであり良かったと思いました。塗油の後、Yさんはうっすらと涙を浮かべる様子があり、Fさんは「あ・り・が・と」とゆっくりおっしゃってくださいました。お二人の御国での魂の平安をお祈りします。

 さて、本日の福音書は、マタイによる福音書21章28-32節です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「二人の息子のたとえ話」です。聖書を読むときに、文脈を押さえることは大切です。マタイ福音書では、21章からイエス様のエルサレムでの活動が始まります。イエス様は神殿から商人を追い出し、境内で、祭司長や民の長老という当時のユダヤ教の指導者たちと権威について論争しました。その中で、イエス様はこの「二人の息子のたとえ話」を用いられたのでした。
 
 本日の福音書の箇所は次のようです。
 二人の息子に父親が「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言いました(28節)。兄は初めは「いやです」と言いましたが、考え直してぶどう園に行きました。弟は口では「はい、お父さん」と答えましたが、ぶどう園には行きませんでした。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか(31節a)」とイエス様は祭司長や民の長老たちに尋ね、彼らは、考え直してぶどう園に行った「兄のほうです」と答えました。その人たちに向かってイエス様は、言われました。「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」(31節b)と。続いてイエス様はその理由を話されました。
「なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」(32節a)と。ユダヤ教の指導者たちは洗礼者ヨハネとその教えを信じませんでした。しかし、徴税人や娼婦たちは信じました。ここに違いがあります。さらに、イエス様は指導者たちに「あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(32節b)とおっしゃったのです。
 このような話でした。

 洗礼者ヨハネが示した「義の道」とは何のことでしょうか?
 洗礼者ヨハネは荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と教えを宣べ伝えました。イエス様の宣教開始の第一声も「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)でした。「悔い改め」とは回心、神様に立ち帰ることであり、洗礼者ヨハネもイエス様も神様に方向転換することを説きました。「義の道」とはそういうことだと思います。それをユダヤ教の指導者たちは信じず、徴税人や娼婦たちは信じました。だから、「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」と言われるのです。
 
 この「たとえ話」の中の父親は、父なる神様です。そして、ぶどう園は神の国を表していると考えられます。この箇所でイエス様が示されたこと、また、イエス様が私たちに望まれるのはどのようなことでしょうか? 
 この兄としてたとえられているのは、当時、「律法を守らず、神様の掟を守らない」と非難されていた徴税人や娼婦たち、ユダヤ人から罪人であると見なされている人たちでした。彼らは、一度は「いやです」と言って神様に背く姿勢を見せたかもしれません。しかし、後になって、考え直し、悔い改め、神様を信じ、神様に従う者になりました。これに対して、「はい」と答えて、結局、ぶどう園には行こうとしなかった弟とは、祭司長や民の長老たちのことを言っておられます。「自分たちは律法を守っている。自分たちは正しいと自負している」と掟や儀式について厳しいことを言っていますが、本当は、神様の御心に従おうとしないのが、祭司長や民の長老たちでした。
 一度は神様に背くことがあっても、考え直して神の御心に従うことの重要性を、イエス様は示されたのであります。
 また、神様は「ぶどう園へ行って働きなさい」とおっしゃており、イエス様は私たちが神の国に行って、神の支配・統治のもとで働くことをお望みなのだと思います。
 そのことをイエス様はこのたとえを通して私たちに教えておられます。

 私たちは神の国でどのような態度で働けば良いでしょうか?  それは本日の使徒書、フィリピの信徒への手紙第2章に示されています。3節から5節にこうあります。
『何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。』
 へりくだり相手を敬い、他者に配慮する。何事もそのような態度で行うようパウロは記し、それが神の御心であると言っているように思います。その神の御心はイエス様にも見られると言っています。
 では、イエス様とはどのようなお方でしょうか?
 6節から8節にこうあります。
『キリストは 神の形でありながら 神と等しくあることに固執しようとは思わずかえって自分を無にして 僕の形をとり 人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで それも十字架の死に至るまで 従順でした。』
 神であるイエス・キリストがご自分を無にして天から降り、僕となり人間の姿になり、この地上で十字架の死に至るまで従順に生きられました。そして、イエス様は地上で罪人を回心させ救いをもたらせたのです。
 徴税人や娼婦たちは、イエス様が示されたそのような「義の道」を信じたのです。
 
 本日の福音書使徒書から思い浮かんだ本があります。それはこの本、フランクルの「それでも人生にイエスと言う」です。

 フランクルユダヤ人の精神科医で、アウシュビッツ強制収容所での体験から「夜と霧」という名著を著したことで知られています。この本、「それでも人生にイエスと言う」にこうあります。「人間はあらゆることにもかかわらず-困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても-人生にイエスと言うことができるのです。」(P.162)と。さらに、この本の中でフランクルは「態度価値」について記しています。「態度価値」とは、「自分の可能性が制約されていることが、どうしようもない運命であり、避けられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか」ということによって実現される価値(P.196)のことです。
 本日の福音書の兄、そして徴税人や娼婦たちは、イエス様が示された回心、悔い改めである「義の道」という人生に「イエス(はい)」と言ったのだと思います。そして、それを「へりくだり相手を敬い、他者に配慮する」という、いわば「態度価値」で行うことをイエス様はお望みなのだと思うのです。

 イエス様の望まれるそのような価値ある態度に、先日、私は出会いました。それは、Fさんのお兄さん、Oさんからお聞きしたことです。Fさんは病状が悪化して、痛みがひどくなっても「苦しい」とか「痛い」と言うことは一切なかったそうです。痛み止めのモルヒネを打つ必要があってもそれを求めることはなかったそうです。顔をしかめる様子などから、Oさんはじめ周りの人が察して看護師さんに頼んだとのことです。私は、「深夜、看護師さんにわざわざ来てもらっては申し訳ない」という、極限状態にあっても「へりくだり相手を敬い、他者に配慮する」という態度価値をFさんは示されたのだと思います。素晴らしい人間性であり、Fさんは「人生にイエスと言えた」人なのだと私は思うのであります。

  本日の福音書で、兄は初めは神様に背く姿勢を示しましたが、考え直して神様に従い神様と共に生きました。弟は口では「はい」と答えましたが、神様の方を向くことをせず神様の御心に従いませんでした。
 イエス様はこの兄のように、一度は「いやです」と拒否したとしても、後で考え直して神様に従い神様と共に生きることを、私たちに求めておられます。そこでの態度は、へりくだり相手を敬い、他者に配慮することです。イエス様は、ご自分を無にして天から降り、僕となり人間の姿になり、この地上で十字架の死に至るまで従順に生きられた方です。そして、地上で罪人を回心させ救いをもたらしたのです。 

 皆さん、私たちは、日々の生活の中で、その「神の義」に思いを馳せ、自らを振り返り、神様の方へ方向転換し、考え直して主の御心を行いたいと願います。すべてを神様に委ね信頼するとき平安が与えられます。本日の特祷のように、「穏やかな心を持って主に仕え」ることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。