マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 25主日 聖餐式『神を恐れずタラントンを生かす』

 本日は聖霊降臨後第 25主日。前橋の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙一 5:1-10 、詩編90:1-8、12とマタイによる福音書25:14-15、19-29。説教では、 「タラントンのたとえ」から愛の神を正しく理解し、私たち一人一人にもそれぞれに応じたタラントン(賜物)が預けられていることを自覚し、恐れず主に信頼し、日々タラントンを生かすことができるよう祈り求めました。
 本日のテーマと関連するマザー・テレサの言葉も引用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
  イスラエルパレスチナの戦闘は、今も和解のめどが立たず、ガザ地区ではハマスの拠点があるとイスラエルが主張する病院に軍事作戦が拡大され、多くの非戦闘員、特に女性や子どもたちが犠牲となっています。一刻も早い停戦がなされるよう切に折るものであります。

 さて、本日は聖霊降臨後第24主日です。福音書は、マタイによる福音書25:14以下の「タラントンのたとえ」としてよく知られているものです。  
 本日の箇所はこんな話でした。
 『イエス様は「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。」とお話を始めました。主人は旅行に出るとき、3人の僕にそれぞれ、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。時が経って主人が帰ってきて清算をしました。5タラントン預かった僕はそれを元手に商売をして稼いだ5タラントンを加えて10タラントン返しました。2タラントン預かった僕も同様に4タラントン返しました。主人はこの2人を「良い忠実な僕だ。よくやった。」ととても褒めて、この2人に多くのものを任せることにしました。1タラントン預かった僕は地の中に埋めておいた1タラントンを掘り出して返したのですが、「悪い臆病な僕だ。」と叱られました。彼の1タラントンは10タラントン稼いだ者に与えられました。』

 この主人とは誰のことでしょうか?・・・神様でありイエス様であると考えられます。では僕(しもべ)たちとは?・・・私たちのことだと言えます。 

 タラントンとは、お金の単位で、6000デナリオンです。1デナリオンは労働者の1日の賃金に当たります。仮に1デナリオンを1万円としますと1タラントンは6000万円ということになります。そう考えると5タラントンは3億円、2タラントンは1億2000万円となります。神様は私たち一人一人にそれほど巨額のものを預けておられるのです。
 タラントンから英語の「talent」という言葉が生まれました。それは「才能、素質、能力」を意味します。今、テレビに出ているタレントというのは、このタラントンから来た言葉です。
 神様は、人それぞれに、ある人には、5タラントン、ある人には2タラントン、そして、ある人には1タラントンの財産、才能、能力を預けました。みんな同じではありません。私たちは皆、神様から、それぞれに、違った才能、能力が預けられているのです。そして、私たちは、与えられている、限られた時間の間に、命がある間に、それを元手に活用して、神様の期待に応えることが求められています。そして、突然、私たちは神様の前に出て精算しなければならない時が来ます。それは終末の時ですが、自分のこの地上での人生の終わりの時と言い換えてもいいかもしれません。
 
 この箇所における、5タラントンや2タラントン預けられた人と、1タラントン預けられた人の違いは何でしょうか? 5タラントンの人は、5タラントン儲けて10タラントンにして、2タラントンの人は、これを元手に2タラントン儲けて4タラントンにして、神様の前に差し出しました。以前に流行った言葉でいえば、「倍返し」です。それに対して、1タラントンの人は、地の中に埋めてしまい、これを増やそうとしませんでした。前者は神様から預けられたタレント(才能・能力)を生かしたのに対して、後者はそれを生かさなかったと言えます。
 現在の私たちには、財産を地の中に埋めることは奇異に感じますが、当時のユダヤではよくあることだったようです。ユダヤは小さな国で周辺の大国に攻められることがよくあり、その時すべてを持って逃げることはできないので、財産を土に埋めて避難し、敵が去ったときに元の場所に戻るということがなされていたようなのです。そうすると、1タラントン預けられた人の行動は単純に批判はできないようにも思います。

 では、この1タラントン預けられた人の問題点は何でしょうか?
 そのことを考える上でのキーワードがあります。それは「預ける」と訳された言葉でギリシャ語では「パラディドーミ」と言います。この言葉の意味は「信頼して委ねる」ということです。本日の福音書の冒頭に「天の国は、自分の財産を預けるようなもの」という表現がありますが、この「預ける」が「パラディドーミ」です。天の神様は、私たち一人一人にそれぞれに応じた賜物を信頼して委ねているのです。そして、5タラントンや2タラントンを預けられた人は「ご主人様、五タラントン(または二タラントン)をお預けになりましたが、御覧ください。」と、主人が信頼して委ねていることを理解していますが、1タラントンを預けられた人にはその言葉がなく、それは主人を正しく理解せず信頼しなかったことを意味しています。
 24・25節にこの人の言葉でこうあります。『ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、、恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。』
  この人は神様、イエス様を厳しい方ととらえ恐れています。しかし、神様は本当にそのようなお方でしょうか? 
 本日の使徒書、テサロニケの信徒への手紙一5:9・10にこうあります。「神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。」 
 神様はこのようお方です。神様は私たちを救うために独り子であるイエス様をこの地上に送るほど愛しておられるのです。1タラントン預けられた人は間違った理解をしていたと言わざるを得ません。だから恐れたのです。それが1タラントン預けられた人の問題点と言えます。

 私たちはどうでしょうか? 愛の神様を正しく理解しているでしょうか? 厳しい方ととらえ、恐れることはないでしょうか?  
 マザー・テレサは、この本「Remembering Mother Teresa Queen of the poor」のなかでこう言っています(P.69)。

「We are able to go through the most terrible places fearlessly, because Jesus in us will never deceive us. Jesus in us is our love, our strength, our joy and our compassion.(私たちは最も困難な場所を恐れることなく通過することができます、なぜならイエス様は決して私たちを欺かないからです。イエス様は私たちの愛、強さ、喜び、そして慈しみです)」
 ここで言われていることは、イエス様がおられるので、どんな場合も恐れず乗り切れるということです。

 では、私たちがどうすることを神様、イエス様は求めているでしょうか?       
 神様は「お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。」とおっしゃいます。僅かなものに忠実であること、小さなことに誠実であることが求められています。この世において、華やかなこと、派手なこと、賞賛をあびるようなこと、神様が私たちに求められるのは、そういうものではありません。「5タラントンの財産を預かっている人は、それを忠実に誠実に使いなさい。2タラントンの人は2タラントンを、1タラントンの人は1タラントンを忠実に誠実に使いなさい」と言われるのです。
 神様からお預かりしているタラントン、大事な神様の財産、才能、能力、体力、性格、知識、経験、あらゆる賜物を「よくやった。良い忠実な僕だ。主人の祝宴に入りなさい。」と言われるように、忠実に、主を信頼して生かすことが大切なのだと思います。

  皆さん、神様は私たち一人一人にそれぞれに応じたタラントンを預けておられます。それを地中に埋めるのでなく、活用することを神様は求めておられます。愛の神様を正しく理解し、恐れず主に信頼し、イエス様がいつ来られてもよいように、日々自分のタラントンを生かしたいと願います。パレスチナでの戦闘についても、私たちに何ができるか思い巡らして参ります。すべてを主にゆだね、それぞれのタラントン(賜物)を忠実に誠実に活用できるよう、祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン