マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 16主日 聖餐式『神の憐れみに応え人を赦す』

 本日は聖霊降臨後第 16主日。前橋の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、シラ書[集会の書] 27:30-28:7、詩編103:8-13とマタイによる福音書18:21-35。説教では、「仲間を赦さない家来のたとえ」から、神が私たちを憐れみ赦していることに応え、神に寄り頼み人を愛し赦すことができるよう祈り求めました。
 テーマから思い浮かべる八木重吉の詩「ゆるし」についても言及しました。 

   説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は聖霊降臨後第16主日です。福音書は、マタイによる福音書18章21節から-35節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「仲間を赦さない家来のたとえ」です。ここでは1万タラントンと百デナリオンという天文学的な額の違いを例に掲げて相手を赦すことの真の意味を示しており、先ほど読んでいただきました旧約聖書続編のシラ書の内容と対応しています。

 本日の福音書はこのような話です。
 自分に対して罪を犯した者を「何回赦すべきでしょうか。」というペトロの質問に対してイエス様は「7の70倍までも赦しなさい」、つまり「どこまでも赦しなさい」と教えられ、「天の国のたとえ」として「仲間を赦さない家来のたとえ」を語られました。
 ある王が、その家来たちに貸した金の清算をしようとしました。そのとき、1万タラントンの借金を王に対して負った家来が連れて来られました。そして、自分も家族も財産も全部売って、借金を返すようにと命じられます。彼はひれ伏して懇願します。『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と。しかし、彼にそれができるわけはありません。1万とは当時数えられる限りの最高の数を意味し、タラントンも金額として考えうる最高の額でした。しかし、なんと主君は、彼を憐れに思い、彼を赦し借金を帳消しにしてやったのです。ところが、彼は出て行き、100デナリオン、ざっと今の100万円ほど、自分に借金のある仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言いました。仲間がひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼むのを聞かず、彼を借金を返すまでと牢に入れたのです。この一切を見ていた仲間たちは、非常に心を痛め、主君のもとに行って一部始終を報告しました。主君は、この家来を呼びつけて、『私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言って、拷問係に引き渡したのです。
 イエス様は、このようなたとえをペトロに話して、『あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。』と言われました。

 このような「たとえ話」です。
 ここに出てくる「王」、あるいは「主君」は、天の父なる神様であり、そして王である主君に一万タラントンの借金がある「家来」は、実に私たちのことであると考えられます。

 ここで注目したい言葉が3つあります。それは1万タラントンと「憐れに思って」と100デナリオンです。1つずつ見ていきたいと思います。

 まず、1万タラントンです。
  1タラントンは6000デナリオンです。1デナリオンは労働者の1日の賃金だったと言われます。分かりやすく1デナリオンを1万円すると(今は不況でもっと低いかもしれませんが)、1タラントンは6000万円となります。1万タラントンはその1万倍ですから、6000億円ということになります。そのような多額な借金を家来は主君からしていたのです。そしてそれは、神様から多額の借金(罪)を私たち人間が負っているということでもあります。

 続いて「憐れに思って」です。ギリシア語では「スプランクニゾマイ」です。それは「目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられてしまう」という深い共感を表す言葉です。「はらわた痛み」とでも言うのでしょうか。ひれ伏ししきりに「待ってください」と願う家来(つまり我々人間)を見て、家来との関わりを大切に思い、はらわた痛み、赦し、6000億円という多額な借金を帳消しにしてくださる、父である神様とはそのような方だとイエス様は語るのです。

 最後に100デナリオンです。先ほどもお話ししましたように、1デナリオンは労働者の1日の賃金だったと言われます。分かりやすく1デナリオンを1万円とすると、100デナリオンは100万円となります。少額ではありませんが、庶民でも有りうる金額です。
    
 1万タラントン(6000億円)の借金を帳消しにしてもらったのに、自分が貸した100デナリオン(100万円)は赦せない。これが私たち人間の姿なのだと思います。この現実を直視するとともに、神様は私たちを憐れに思い(はらわた痛み)、多額の借金を帳消しにするほど愛してくださっていることを心に留めたいと思います。

 本日の福音書のテーマから思い浮かべる詩があります。それは八木重吉の「ゆるし」という詩です。このような詩です。
  『神のごとくゆるしたい
    ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
   花のようになったらば神のまへにささげたい』
 人から投げつけられた憎しみや怒りや、いわれのない悪意をも、相手に投げ返さずに、まずそのまま受け止める。八木重吉は、これらを自分の胸に抱きあたため、美しい花束に作り替えて神に捧げたいというのです。
 八木重吉は最初から、「これは至難の技だ」と言っているように思います。「神のごとくゆるす」ことは、人間にできるものではありません。だからこそ祈るしかないのです。「ゆるせる心を与えてください」と、その完成を切望し、成就したいと願うのです。そして神の前にひれ伏してこの花を捧げたいというのであります。それが彼の祈りです。
 八木重吉の詩は教科書にも載っています。彼は、1898年(明治31年)、今から125年前に現在の町田市に生まれました。病弱で、キリスト教の深い信仰をもっていました。教師をしながら、多くの詩を書き、1927年(昭和2年)に結核のため29歳の若さで天に召されました。
 「ゆるし」の詩はこの詩集『貧しき信徒』に納められています。

 

 『貧しき信徒』は彼の第2詩集の題名で、この詩集は彼の死の4ヶ月後に刊行されました。私は、洗礼は受けたがあまり教会に行かず一人で聖書を読んでいた八木重吉は、自分を『貧しき信徒』であるという自覚を持っていたように思います。
 八木重吉の詩が死後100年近く経っても多くの人に読まれているのも、自分が「貧しき信徒」であるという謙虚な姿勢の故であるように思うのです。私たちは誰一人、自分が立派な信徒であると言える人はいないのであります。自分も「貧しき信徒」であるという謙虚な思いが八木重吉の姿勢と共感して、多くの人の共感を得ているように思います。この「ゆるし」という詩でも、神のようにゆるしたいがそうできない自分を自覚し、祈りによって憎しみを美しい花のように換えて神に捧げることを願っています。そこにはすべてを神に委ねる信仰があり、神の愛が先に私たちに与えられているということがあると思います。
                
 本日の福音書に戻ります。私たちが人をゆるす原点、それは神様が私たちを「はらわた痛む」ほど愛し、数え切れないほど赦しておられることなのです。
 それなのに、私たちは皆、人の罪を責め「絶対に赦せない」と言ってしまいがちであり、その時には、神様によってとてつもなく大きな借金、罪を赦していただいていることを忘れてしまっているのであります。

 本日の福音書のイエス様の結びの言葉は「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」です。これは厳しい言葉ですが、見方を変えれば、「私たちが罪を犯したきょうだいを赦すなら、天の父も私たちを赦してくださる」ということです。このことから「主の祈り」の一節を思い起こします。それは、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」です。
 私たちは、神様から、多くのことを赦してもらっています。けれども人を赦すことは難しいものです。主の祈りを唱えるたびに、赦されていることに感謝し、人を赦す力を与えてくださるよう願いたいと思います。

 皆さん、神様は私たちを「はらわた痛む」ほど愛し赦してくださっています。そのことを心に刻み、一心に祈るとき、私たちも神様の思いに応え、自分の身近な一人一人を愛し赦す気持ちが生まれてくるのではないでしょうか。そうできるよう、日々神様に寄り頼み、聖霊による導きを祈り求めて参りたいと思います。
 
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン