マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第11主日 聖餐式 『神の国の狭い戸口から入る』

 本日は聖霊降臨後第11主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヘブライ人への手紙 12:18-19、22-29とルカによる福音書13 :22-30。神の国の狭い戸口から入るために、自分を見つめ直し鍛錬し、信仰によって神様の御心に従って今を全力で生きるよう祈り求めました。「狭い戸口」について記された稲川圭三神父の「神さまのみこころ-イエスさまのたとえを聞く-」も文も引用しました。

   神の国の狭い戸口から入る

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第11主日、聖書日課は特定16です。福音書ルカによる福音書13 :22-30です。この箇所では、神の国に入るのは、共に食事をし、教えを受けたと主張するユダヤ人ではなく異邦人へと移行していることが語られます。本日の使徒書はヘブライ人への手紙12:18以下で、パウロが弟子としての在り方、特に、神様に仕えることなどについて語っています。
 今日の福音書箇所について学びたいと思います。
 今日の福音書箇所、ルカの福音書13:22-30節は3つの段落から構成されています。第1段落は22節から24節、第2段落は25節から27節、そして第3段落は28節から30節です。
 
 まず第1段落(22節~24節)です。
 どのような状況の箇所かは、最初の22節に記されています。
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けられた。」
 イエス様の宣教の生涯は、旅の日々でした。目的地はエルサレムエルサレムはイエス様が十字架に架けられた場所です。イエス様の旅は、十字架への旅だったと言えます。
 続く23~24節はこうです。
「すると、『主よ、救われる人は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問には、どんな人が救われるのでしょうか、救われるための条件とは何ですか、という意味が含まれています。
 これに対して、イエス様は、その問いには直接答えられないで、そこにいた群衆に向かって、言われました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と。
 マタイによる福音書では、7章13節に「狭い門から入りなさい。」と記されています。意味は同様です。
 イエス様は、狭い門、狭い戸口から入るように努めなさいと教えておられます。
 イエス様が言われる「門」とか「戸口」から入るとは、どこへ入るのでしょうか? その戸口を入った向こうには、何があるのでしょうか?  
 イエス様に質問している「救われる者は少ないのでしょうか」の「救われる」という言葉は初代教会が好んで用いる熟語で、神の国に入ることや永遠の命を得ることを表しています。ですから、その戸口の向こうにあるのは、「神の国」であると考えられます。神様が統治している「神の王国」です。神様の力が、神様の御心が、すみずみまで行き渡っている状態、そのような世界です。
 「狭い戸口から入るように努めなさい。」は直訳では、「狭い戸口を通って入るために戦いなさい」です。「戦う」と訳した動詞は、スポーツ競技者が勝利を目指して体を鍛え努力することを表す競技用語です。従って、人を押しのけて戦うというよりは、自分を鍛錬する努力を指すと言えます。しかも「戦いなさい」は現在形ですから、今、必要とされる鍛錬が教えられています。
 「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」は直訳では、「というのは、多くの人が入ることを努めるだろう。そして彼らは力がないだろう」
です。ここでは狭くなる理由が表されていると取ることもできます。戸口が閉じられる直前になって大勢の人が殺到します。いちどきに大勢の人が押し寄せるから、戸口が狭くなるのであって、今はまだ広いのかもしれません。今が大切な時だと知り、目覚めて全力を注ぐ者にとって、戸口は決して狭くはない、と考えられます。
 第1段落では、ユダヤ人たちが興味を持っていた問題、つまり「誰が救われ、その数はどのくらいであるか」という問題がイエス様に投げかけられます。イエス様の答えは、直訳では「狭い戸口を通って入るために戦いなさい」と現在形の命令形で語られ、その後に「多くの人が入ることを努めるだろう。そして彼らは力がないだろう」と未来形が続いていました。未来になると、入ろうと努めても、力がなく、失敗してしまうから、今、獲得しようとすることが大事だ、と述べているのだと思われます。

 続いて第2段落(25節~27節)です。
 「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。その時、あなたがたは、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちの大通りで教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不正を働く者ども、皆私から立ち去れ』と言うだろう。」
 イエス様はこのような神の国の例え話を群衆にされました。
 この時、イエス様を囲んで話を聴いている群衆はどのような人たちだったでしょうか? それは、ユダヤ人たちです。当時のユダヤ人は、自分たちこそアブラハムの子孫であり、神様によって選ばれた民族である、神様から救われることは保証されていると思っていました。律法、掟さえ守っていれば正しい、信仰深いのだと思っていたのでした。
 この例え話では、彼らが「一緒に食べたり飲んだり」したこと、また「私たちの大通りで」教えを受けたことを申し立てて、主人と関わったことのある人物であると主張しますが、主人は「どこの者か知らない。」とそれを否定し、さらに「不正を働く者ども」であると断定し「立ち去」るようにと命じています。イエス様は、「一緒に食べたり飲んだり」したと訴え、「私たちの大通りで」教えを受けたと言っても、誠実な関わりを欠いているなら、場所を共有しただけのことにすぎない。このような人たちに「神の国に入るのは難しい」と語っておられるのです。

 最後の第3段落(28節~30節)では、「神の国」で「宴会の席に着く」者たちが描かれています。ここでは、神様である家の主人は、「あなたがたは神の国から外に投げ出され、泣きわめいて歯ぎしりする。そして、人々は、東から西から、また北から南から来て神の国で宴会の席に着く。そこでは後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」と、言われたのです。
 この「先の人」はユダヤ人を指し、「後の人」は異邦人を指します。ユダヤ人は自分たちこそ救いに近いと慢心し、「今」をおろそかにし、救いから遠ざけられました。むしろ救いから遠いと考えられていた異邦人の中に救いにあずかる者が現れる。しかし、異邦人だからということだけで救いにあずかれるのではなく、また、ユダヤ人だという理由だけで遠ざけられるのでもありません。大切なことは、「今」がどのような時かをわきまえ、それにふさわしく応答することであると言うのです。
 
 今日の福音書箇所から示された神様の御心とはどんなことでしょうか?
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言って、誰が、どんな人が、どれぐらいの人が救われるのかと尋ねた問いに対して、イエス様は「それよりも大事なことがある。あなたがたは、今、神の国の入口から入るために、狭い戸口でも入ろうと努めているのか、真剣に入ろうとしているのか」、と迫っておられます。
 では、「狭い戸口」とは何でしょうか?
 カトリック麻布教会の稲川圭三神父のこの本「神さまのみこころ-イエスさまのたとえを聞く-」の中にこうあります。

『イエス様がそこから(神の国に)入るように努めなさいと教えておられる「狭い戸口」とは「信仰」のことだと思います。信仰によって、今日、神の国に入るのです。』(P.123)
 神様の統治の下で、信仰によって神様の御心に従って生きるか、そうではなく自分の思いのままに生きるのか、イエス様は「今、自分を見つめ直し、自分を鍛錬するのでなければ、神の国に入ることはできないのだ」と迫っておられるのであります。
 戸口がいつ閉じられるかは誰にも分かりません。しかし、イエス様が語りかける「今」は、開かれています。この今を活用して終末の宴に連なるためには、神様に心を開き、イエス様との交わりに入れるようにと、自分自身と「戦う」必要があります。長く信仰生活を送っていると、教会に通っているだけで自分は救いにあずかれるという慢心があるかもしれません。神様は誰にも戸を開いています。それを生かすかどうかは、その人自身の信仰にかかっているのです。

 皆さん、私たちは神の国の宴会に招かれています。「今」がどのような時かをわきまえ、それにふさわしく応答することが求められています。神の国の狭い戸口から入るために、自分を見つめ直し鍛錬し、神様の御心に従って信仰によって今を生きることができるよう祈り求めて参りたいと思います。