マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第9主日 聖餐式 『神の国で給仕される主イエス様』

 本日は聖霊降臨後第9主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヘブライ人への手紙 11:1-3、8-16とルカによる福音書12:32-40。主に従う小さな群れに神は神の国をお与えになり、主イエス様が私たちに給仕してくださることを知り、天に宝を積む生活をし、すべての希望を神に置く信仰を自分の死や主の来臨まで持ち続けるよう祈り求めました。また、英語の聖書(NIV)の文も活用しました。

   神の国で給仕される主イエス

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第9主日、聖書日課は特定14です。福音書ルカによる福音書 12:32-40で、この箇所でイエス様は、主に従う小さな群れに神様は神の国を与えるゆえ、宝を天に積む生活をし、すべての希望を神様に置く信仰を求めています。その信仰はキリストが再び来臨する時まで保たれるべきものです。また、使徒書はヘブライ人への手紙の11章で、「信仰とはどのようなものか」をパウロが語っています。

 福音書を中心に考えます。今日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに語っていて、先週の「愚かな金持ち」の話の後、「思い煩うな、ただ神の国を求めなさい」という教え(22-31節)に続いて語られたものです。今日の箇所は大きく2つの部分からなっています。前半部分は32-34節、後半部分は35-40節です。

 前半は、「宝を天に積みなさい」ということが記されています。
 32節で 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」 とイエス様はおっしゃいました。この当時、弟子たちはユダヤの社会の中で小さな群れでした。その弟子たちに、「恐れるな」とイエス様はおっしゃいます。私たちキリスト者も、今の日本の社会では本当に小さな群れです。その私たちにもイエス様は「恐れるな」とおっしゃっています。また、この社会には小さくされた人々が多くいます。その人達にも「恐れるな」とイエス様はおっしゃっております。そしてそのような小さな群れに、父なる神様は喜んで神の国、神が統治される世界を与えられるとイエス様はおっしゃっておられるのです。これは福音(良い知らせ)であり、大きな喜びです。この喜びにふさわしい行動が33・34節に示されています。こうあります。
「自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
 この世の財産を売って自分から放し、他者へと施す。ここから尽きることのない天の宝との関係が始まります。「あなたがたの宝」は「天の中に」あります。天は「盗人も近寄らず」「虫も食い荒らさない」ところですから、宝は盗み取られることはなく、財布もぼろぼろになることはないのです。
 天における報いは、地上のものと異なり、朽ちず、損なわれず、いつまでも保ちます。だから、地上のことよりも、天のことや神様のことを考えていなさい、「宝を天に積みなさい」とイエス様はおっしゃっています。

 後半は、主人がいつ帰ってきてもいいように「目を覚ましていなさい」というたとえ話が述べられています。主人とは神様のことと考えられますから、神様がいつ来られてもいいように備えなさいということを意味しています。神様が来られるというのは、一つには、私たちが死を迎える時とも考えられます。日本語でも「お迎えが来る」という言い方をしますが、まさに死の時に神様がお迎えに来るというのです。また、もう一つは、キリストが再臨され、この世が裁かれ、神の国が完成する時です。このどちらも私たちには、いつ来るのか、分かりません。このいつ来られるのか分からない神様が、そしてキリストが、いつ来られても良いように準備することが求められています。                         
 少し詳しく見ていきましょう。
 35節「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。」
 腰に帯を締めるとは、仕事をしやすいように、衣の裾を上げることです。今日、私が着ている祭服のアルブでも腰に帯を締めています。これによって仕事がしやすくなっています。また、ここは、英語の聖書(NIV)では「Be dressed ready for service and keep your lamps burning, 」とありました。

 つまり、サービスのため身支度を調えなさい、そして、あかりをともし続けなさい、と命じられているのです。あかりとは何のことでしょうか? これは「信仰のあかり」と考えられます。
 では信仰とは何でしょうか? 今日の使徒書、ヘブライ人への手紙11:1-3にこうあります。
「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。昔の人たちは、信仰のゆえに称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」
 信仰とは希望を信じ、この世界を神様が創造したことを認めること。何かが成ってからとか、何かを理解してから、ではなく、はじめに信じる。そうすることによって、新しい現実・理解が生まれてくる。そうパウロは語っているように思います。
 私たちは、サービスのため身支度を調え、信仰のあかり・灯をともし続けるよう命じられていますが、福音書の36節でその具体策が示されます。それは「主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」ということです。
 さらに、37節後半にはこうあります。
「よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。」
 ここでは常識では考えられないことが語られています。主人が僕の給仕をするるというのです。主人であるイエス様自身が腰に帯を締めて、私たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくださるのです。これはイエス様が再び来られる時の神の国の食卓を表しているとされています。さらに言えば、この食卓は、神の国の先取りである聖餐式を表しているとも考えられます。私たちが毎主日行っている聖餐式は、実はイエス様ご自身が給仕してくださる神の国の食卓であると言えます。なんともありがたい食卓に私たちは毎主日預かっているのです。
 38節です。
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」
 これは、イエス様が今日、戻ってこられるかもしれない。今、この時間に戻ってくるかもしれない、と考えることです。
 当時のユダヤの婚礼は宴を含めいつ終わるか分からないほど長いもので、通常1週間、時には2週間続くようなこともあったそうですが、その終わりが真夜中や夜明けだとしても、主人が家に帰ってくるのは確実です。主人が家に帰ってきた時に「目を覚ましている」僕たちは大きな喜びに出会うことになります。
 39―40節はこうです。
「このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 39節のたとえで、家の主人の不意をつく盗人の襲来を述べることによって、キリストの再臨の突然性を強調しています。家の主人は盗人が襲来する時刻を知らないから、泥棒に入られてしまう。それほどに、盗人は不意をついて侵入するのです。それと同じように「人の子、イエス様」も不意をついて到来します。しかし常に目を覚まして「用意して」いれば、不意をつかれることはありません。主人が帰るという希望に励まされ、目を覚まして信仰にしっかりと立ち、主の到来を待つことが勧められています。

 キリストを信じる者の特徴は「目覚めて待つ」ことにあります。目覚めて待つためには、神の思いに添って、天に宝を積み、心を天に向ける必要があります。神の国が必ず与えられることを信じて待つのです。主キリストが準備し、給仕する食事があると知っている者は、信仰に立って、希望という「灯」を掲げているのです。

 主に従う小さな群れに神様は神の国をお与えになります。そして、宝を天に積み、神様がいつ来られてもいいように目を覚まして信仰にしっかりと立つことが勧められています。それができるのはイエス様自身が腰に帯を締めて、そばに来て給仕してくださるからです。
 
 皆さん、神様は主に従う小さな群れに神の国をお与えになります。そして、目を覚まして主イエス様を待っていれば、イエス様ご自身が私たちに霊の糧を給仕してくださるのです。ですから、私たちは天に宝を積む生活をし、すべての希望を神様に置く信仰を、自分の死や主の来臨まで持ち続けたいのであります。そうできるよう日々祈り求めて参りたいと思います。