マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 24主日 聖餐式『信仰の灯を燃やし続ける』

 本日は聖霊降臨後第 24主日。新町の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙一 4:13-18、詩編70とマタイによる福音書25:1-13。説教では、 いつイエス様が来臨してもいいように、私たちの「死」がいつ来てもいいように、聖書を読み祈り、信仰の灯を燃やし続け聖霊により善い業を行い、主に仕えることができるよう祈り求めました。
 ガザ地区イスラエル軍の容赦のない攻撃が続いていることや現在開催されてい日本聖公会宣教協議会のテーマや内容等についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 ハマスによるテロから始まったイスラエルパレスチナの戦闘は1ヶ月以上が経過し、イスラエル側は1,200人以上、パレスチナ側は1万人以上の死者を出しています。その中には多くの非戦闘員、女性や子どもたちが含まれています。1日4時間の戦闘休止は同意されたものの停戦にはほど遠く、今もガザ地区へのイスラエル軍の容赦のない攻撃が続いています。私たちに何ができるかを追い求めて参りたいと思います。

 さて、本日は聖霊降臨後第24主日です。教会では降臨節第1主日(今年は12月3日)から新しい年になります。教会暦では今年の終了まであと1ケ月を切ったということになります。本日読まれた聖書も、終末的な雰囲気が強くなっています。

 本日の福音書は「十人のおとめのたとえ」と言われている箇所です。マタイによる福音書では、24章3節からオリーブ山で弟子たちに対して終末に関する説教が始まり、それは25章の終わりまで続きます。
 本日の福音書箇所の背景や習慣を見てみます。この時代のユダヤの結婚式と祝宴は、夜に行われたそうです。まず、夕方になると、着飾った花婿が大勢の友人に取り巻かれて、楽器を鳴らしながら花嫁の家に花嫁を迎えに行きます。そして、花嫁の家で近親者だけで結婚式が執り行われます。その後、美しく着飾った花嫁が友だちに付き添われて花婿の実家に向かいます。その行列は花婿とその友だちを先頭に、花嫁とその友だちが続きます。手に灯りを持ち、音楽あり、踊りありと賑やかにこの行列は進んで行きます。花婿の家では、この行列が到着するのを待ちうけるのですが、夜遅くなることもしばしばあったようです。その理由は、花嫁の家で結婚式の前に花婿の父親と花嫁の父親が花嫁料(結納金のようなもの)を話し合うのですが、その額が折り合わず話し合いが延びることなどが考えられるようです。いずれにしても、花婿の実家では花嫁を迎える道を照らすために灯りを持ったおとめたちを途中まで迎えに行かせました。灯りをいっぱいともして花婿と花嫁の行列を迎え入れ、それから本格的な祝宴が始まるのでした。それは1週間ほど続いたそうです。

 本日の福音書箇所を振り返ります。
 『「天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。」とイエス様は話し始めました。10人の内、賢い5人のおとめは、手に持った灯りの他に予備の油を入れた壺を持っていました。しかし、愚かな5人は予備の油を持っていませんでした。花婿たちの行列が遅くなったので、迎えに出たおとめたちは途中で休んでいる間に、いつのまにか眠ってしまいました。
 眠り込んでしまった時に、「花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声が聞こえ、おとめたちはあわてて起きあがり、灯りを整えました。いずれの灯りも油が切れて消えそうになっていましたが、予備の油を持っている賢い5人のおとめたちはすぐに補給することができました。しかし、予備の油を持っていない愚かなおとめたちの灯りは消えてしまいそうになりました。そこで、賢いおとめたちに「油を分けてください。私たちの灯は消えそうです」と頼みました。しかし、賢いおとめたちは「分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と答えました。
 愚かなおとめたちは、あわてて油を買いに行きました。しかし、間に合いません。その間に花婿の行列が到着し、予備の油を用意していた5人のおとめたちは、灯りをともして花婿たちの行列を迎え、無事に役目を果たすことができました。この5人のおとめたちは花婿たちと一緒に祝宴の部屋に入り、戸が閉められました。
 その後、予備の油を持っていなかったおとめたちは、油を買って来て、花婿の家に行き、「ご主人様、開けてください」と言いましたが、ご主人は、「私はお前たちを知らない」と答えました。このようなたとえ話をした後、イエス様は「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われました。』

 このたとえ話でイエス様が私たちに教えられたことは何でしょうか? また、花婿や花嫁は何を指し、灯や油は何を意味するのでしょうか?
 花婿については、先ほどの福音書朗読の前に歌った聖歌第58番に示されています。
「起きよ、夜は明けぬ」で始まり「花婿は来ませり」とあり「栄えの主はくだりましぬ」と続くように、花婿は主イエス・キリストを指していることが分かります。ちなみに、1節の「ものみら」とは夜警たちのことであり、この聖歌は、待ち望んでいた花婿であるイエス様の到来の喜びに溢れた内容となっています。
 そして、花嫁はキリスト者たち、または教会のことと考えられます。教会はキリストの花嫁とも言います。また、シスター(修道女)もキリストの花嫁と言います。つまり、イエス様と結ばれて救われた者たちです。
 花婿の家のご主人は、天の父なる神様のことでしょう。
 10人のおとめとは誰でしょうか? 花婿であるキリストの来臨を待っている私たちのことと考えられます。
 では、灯とは何でしょうか? 花婿であるイエス様を待ってともし続けるものです。・・・それは信仰であると考えます。

 さて、賢い5人のおとめと愚かな5人のおとめの違いは何でしょうか?・・・それは灯をともし続ける予備の油を用意していたかどうかでした。
 イエス様は「目を覚ましていなさい」とおっしゃいましたが、おとめたちは10 人とも眠ってしまいましたので、ここで言っている「目を覚ましている」ということは、内容的には「油を用意している」ということであると考えられます。
 
 本日の使徒書テサロニケの信徒への手紙一4:16に「合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。」とありますように、イエス様は私たちのところに再び来てくださると約束されました。でもそれはいつだか分かりません。そして、それは私たち個人にとっての終末である「死」と言い換えてもいいかもしれません。
 イエス様の再臨や私たちの「死」がいつ来てもいいように、予備の油を用意しておくことが大事だということが分かります。では、その油とは何でしょうか? 灯である信仰を燃やし続けるためのものです。

 マタイ5章16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである」とありますから、「光(灯)」は「立派な行い(善い業)」を意味していると思われます。しかし、この「光」は神様から来る光であり、善い業を行う力は神様から来るのです。そこには「神の業」を行わせるための「聖霊」が与えられています。このことから、「灯」をともし続けるための「油」は「善い業」、さらにそれを行わせる「聖霊」を指していると考えられます。「善い業」は神様との交わりの中で行われますが、その交わりを保ち続けなければならないことをイエス様は教えておられます。 

 ところで、本日の代祷の項目や週報の「報告・連絡」の最後にありますように、日本聖公会宣教協議会が、現在開催されています。

 この協議会は10年に一度行われ、前回は2012年で昨年開催する予定でしたが、コロナのため1年遅れとなりました。11の教区から聖職・信徒約140名が集い、前回の宣教協議会からの歩みを振り返り、日本聖公会のこれからの歩みを考えています。今回のテーマは「いのち、尊厳限りないもの~となりびとになるために~」で、明日まで開催しています。youtubeで配信されているプログラムもあり、私も昨日、開会礼拝や「いのちの現場からの声」等、いくつか見てみましたが、ぶどうの木である主につながり、生きとし生けるものの「となりびと」となる道を歩む意味や具体例等が示され、多くの示唆が与えられました。特にガザ地区ウクライナ等の戦闘で被害を受けている女性や子どもたちを思って、彼らの「となりびと」となることについて思い巡らしています。皆さんも、可能な方はぜひ以下のURLにアクセスしてご覧ください。アーカイブも見ることができるようです。
2023年日本聖公会宣教協議会 (2023-missionconference-nskk.blogspot.com)

 本日の聖書に戻ります。天の父なる神様は、賢い5人のおとめのように信仰を保つために、聖霊によって善い業を行うことを求めておられます。それに応えるためには、聖書を読み祈ること、また礼拝に参列することが大切だと思います。
  私たちは、いつイエス様がおいでになってもいいように、また、私たちの「死」がいつ来てもいいように、そのような日々を送って、信仰の灯を燃やし続け、主に仕えることができるよう祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン