マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第4主日 聖餐式 『ヨセフの信仰に倣う』

 本日は降臨節第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、イザヤ書7:10-17とマタイによる福音書1 :18-25。神は私たちにイエス「神は救い」、インマヌエル「神は共にいる」というしるしを与え続けていることを知り、ヨセフのように神への信仰を持ち、神の御心に従うよう祈り求めました。私の人生における決断の時で思い浮かぶ一つについてもお話しました。

   ヨセフの信仰に倣う

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は、降臨節第4主日降臨節最後の主日です。アドベントクランツのろうそくも4本灯りました。

    次主日はいよいよ降誕日、クリスマスです。

 本日の聖書日課についてですが、クリスマス直前の主日には、主イエス様の降誕直前の物語が選ばれています。今年、A年は、福音書はマタイ福音書第1章で、イエス様誕生を告げるダビデの家系のヨセフとインマヌエル預言について述べています。旧約聖書イザヤ書第7章で、福音書と関連したインマヌエル預言の箇所が選ばれています。

 福音書に関して言えば、4つの福音書のうちで、イエス様の誕生物語を記しているのはルカとマタイだけです。そして、ルカはマリアに焦点を当て、マタイはヨセフに焦点を当てています。
 本日の聖書の箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか? また、私たちがヨセフから学ぶことはどんなことでしょうか?

 今日の福音書箇所では、ユダヤの王ダビデの子孫であるヨセフは、マリアと婚約していましたが、一緒になる前にマリアが身ごもっていることを知ると、「正しい人」だったので、表ざたにすることなく、縁を切ろうとしました。
 この箇所を理解するためには、この時代のユダヤの結婚に関する慣習等を知る必要があると思います。ここでは、普通は結婚に先立ち1年に及ぶ婚約の期間があり、婚約は結婚と同様の法的重みを持つと理解され、婚約者はすでに<夫><妻>と呼ばれたそうです。婚約した女性が姦淫の罪を犯したと告発され、そう断定されると、既婚者の場合と同じく石打ちの刑に処せられることになっていました。婚約中のマリアが不義で妊娠したのなら死罪に当たることになります。ヨセフは思い悩み、ついに婚約者マリアと密かに、つまり告発することなしに離縁しようと決心します。それは、そうすれば死刑の判決は免れると考えた、ヨセフの愛情であったと私は考えます。
 しかし、ヨセフはなおも思い悩み、なかなか実行できずにいると、天使が夢に現れてこう告げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎え入れなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 と。
 「イエス」という名はユダヤ人の間ではよくある名前ですが、マタイ福音書はこの「イエス」という名の中に意味を見いだしています。イエスという名はヘブライ語では「ヨシュア」で、「神は救い」あるいは「神は救う」という意味です。天使の告知は「聖霊によって」マリアから生まれる「イエス」が単なる呼び名ではなく、「神の救い」そのものであることを示しています。
 さらに、マタイはこの天使の言葉を預言者イザヤの言葉を引用して解釈しています。22節からです。
『このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は私たちと共におられる」という意味である。』
 インマヌエルはヘブライ語で、インマヌー(私たちと共に)とエル(神が)からなる言葉です。「神は救う」という名を持つイエスは、「神は私たちと共におられる」というインマヌエルとしてこの世に来られるのであります。
 眠りから覚めたヨセフは、天使の言葉に従ってマリアを受け入れ、生まれた子をイエスと名づけました。
 ダビデの子孫からメシア(救い主)が生まれるという神様の約束が今、実現しようとしています。というのは、ダビデの子孫であるヨセフがイエス様を子として受け入れ、その名をつけたからです。この行為は当時のユダヤ社会において一種の法的認知であり、これによりイエス様は「ダビデの子」となりました。そうして、聖霊によって生まれた子がダビデの血筋に入れられました。ヨセフが主の天使の言葉に従ったことによって、預言が成就し、救いが人々にもたらされたのです。

 では、なぜヨセフは自分の身に覚えのない子を宿したマリアを受け入れたのでしょうか? なぜ天使の言葉に従ったのでしょうか? 
 それを考える際に参照したいのは、先ほどお読みいただいた旧約聖書イザヤ書7章14節です。「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」とあります。
 これは、紀元前733年のシリア・エフライム戦争の際、預言者イザヤが南ユダ王国の国王アハズに語った言葉です。この戦争は、パレスチナ支配をもくろむアッシリアに対抗して反アッシリア連合を組んだシリアとエフライム(北イスラエルの中心的部族の名で、そこから北イスラエルを表します)とが、連合に参加しようとしないアハズを退位させ、傀儡政権を作るために起こした戦争です。連合に参加すること、あるいは参加しないこと、どちらも可能ですが、預言者イザヤは11節にあるように「あなたの神である主にしるしを求めよ」と、神に信頼するという道を提案し、決断を迫ります。それに対してアハズは「わたしは求めません。主を試すようなことはしません。」と拒否します。しかし、断られても、神は、しるしを与えられます。おとめが男の子を産み「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」と名づけられます。しるしを求めようとしないアハズに主の方から「神が共にいる」というしるしを与えるのです。そのしるしが「神は救う」という名を持つイエスです。これがインマヌエル預言と言われるものです。アハズは結局、連合に参加せず大国であるアッシリア服従し、アッシリアの祭儀を導入することになります。その結果、南ユダ王国アッシリアの属国となりました。
 このアハズと正反対の道を決断したのがマリアの夫ヨセフだったと考えます。主の天使が命じたとおり、つまり神様の命じたとおりに妻を迎え入れ、子をイエスと名づけました。それを行ったのは神への信仰、神への従順からでした。それに基づきヨセフは決断をしました。これは、天使から神様の御子を宿したと告げられたマリアが戸惑いながらも、最終的には「お言葉通り、この身になりますように」と天使に告げたのと全く同じ態度であります。

 皆さん、本日の聖書の箇所で神様が私たちに伝えようとしていることは、神様は私たちに主イエス、インマヌエルというしるし、つまり「神は救う」「神は共にいる」というしるしを与え続けてくださるということではないでしょうか? そして、私たちがヨセフから学ぶことは神への信仰、神の御心に従うということではないか、と考えます。

 私たちの人生においても、決断をしなければならないときがあります。その時、アハズのように神の声を拒否するか、ヨセフのように神への信仰に従順に生きるかが、迫られます。

 私のこれまでの人生を振り返って見ても、様々な決断の時がありました。以前にもお話ししたかもしれませんが、思い浮かぶ一つをお話ししたいと思います。 私は、公立の小・中学校の教員を10年間務めてから養護学校(今は特別支援学校)に移りました。赴任した市立の養護学校では、知的障害のある子供たちから癒され、職場も和やかで、ずっとこの学校で務めたいと思いました。その学校の2年目の終わりに、校長から「4月から○○大学教育学部附属養護学校に行かないか」という話がありました。そこは提灯学校という別名があり、研究や会議等で夜遅くまで、時には深夜まで先生たちが学校にいることでも有名でした。当時、私は34歳。教会では日曜学校の校長や教会委員をしていました。
 私は悩みました。せっかくこの学校に馴染んでいるのに、敢えて苦労をすることはないのではないか。いや、障害のある子に救われたなら、附属に行ってもっと勉強をしてこの子らに報いることがいいのではないか。いやそれでは、今の教会での奉仕が同じようにはできなくなるかもしれない。そもそも私に附属学校が務まるだろうか。等々。
 神様が私になさりたいことは何なのだろうか、主の御心を求めて真剣に祈りました。そして、私は高野晃一司祭(後の大阪教区主教)に相談しました。高野先生は私の話をうんうんうなずきながら聞いてくださり、こう尋ねました。「どちらが大変なのですか? 今の学校にいる方ですか、附属に移る方ですか?」私が「附属です」と言うと、先生は「大変と思う方を選んだらいいと思います」とはっきりとおっしゃいました。私が「そうするとこれまでのように日曜学校や教会の奉仕ができなくなるかもしれません」と言うと、「そういうことはどうにでもなりますから、気にしなくていいです」と話されました。高野先生の言葉で私は吹っ切れて、附属学校への移動を受諾するよう決断しました。
 その学校に赴任すると、そこは聞いていたとおりの研究校で、毎日忙しく、帰宅は10時、11時、時には日付が替わるときもありました。その学校は「子供がいて学校がある」ということがモットーで、あくまで子供を中心に考える姿勢をとっていました。私はその学校に7年いて、教育の一つのあるべき姿を学ぶことができました。その後、教育委員会の指導主事や特別支援学校の校長等を務めましたが、そこでの7年間での経験を基に、定年まで勤めることができました。
 今思うと、高野先生の「大変と思う方を選んだらいいと思います」という言葉は、ヨセフの夢に現れた天使の言葉だったように思います。その後は、大変なこともありましたが、神様が救い、神様が共にいて、導いてくださいました。感謝であります。

 皆さん、私たちの人生では、予期せぬ出来事や思わぬ招きがあったりして、悩みの中で決断をしなければならないときがあります。なかなか決断できないこともあると思います。しかし、神様は私たちに「神は救う」、「神は共にいる」というしるしを与え続けています。それを心に留め、ヨセフのように神への信仰を持ち、御心に従い、祈りをもって決断することが私たちに求められています。神の声に聞き従うことは時につらい大変なことでありますが、一人で苦しむのではありません。「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」のです。そのことを本日の聖書箇所で神様は私たちに伝えています。
 神様の御子イエス様の誕生に際して、ヨセフの神の御心に従う信仰があったことを心に留め、クリスマスを迎えることができるよう祈って参りたいと思います。