マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第21主日 聖餐式 『救いを捜す人とその人を捜す神』

 本日は聖霊降臨後第21主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、テモテへの手紙二1:1-5とルカによる福音書19 :1-10。「徴税人ザアカイとイエス様の出会いの話」から、救いを「捜す」人は、その人を「捜す」神様と出会うことができることを知り、生涯この主に信頼し、終わりの日まで信仰生活を全うできるよう祈り求めました。午後、教会墓地で行われた「埋葬式及び逝去者記念の式」についても言及しました。

   救いを捜す人とその人を捜す神

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第21主日、聖書日課は特定26です。そして諸聖徒日は11月1日、今年は今週の火曜です。諸聖徒日All Saints' Day(カトリックでは諸聖人の日)は、すべての聖人や天国で神のもとにいるすべての信徒を記念する祝日です。 
 教会では、諸聖徒日に一番近い主日に、逝去された信徒の名前を挙げて祈ったり墓地礼拝をしたりします。マッテア教会では、先ほどの「ウクライナのための祈り」に続いて「逝去者のための祈り」を捧げ、当教会に関わる逝去者のお名前を拝読しました。
 なお、諸聖徒日に続いて記念されるのが11月2日の諸魂日(All Souls' Day)です。こちらは、この世を去ったすべての人の魂のために祈る日です。
  さて、聖書に入ります。今日の福音書は、ルカ19章1節以下の、徴税人ザアカイの話です。今日の福音書箇所の舞台は、エルサレムまであと20キロほどのエリコという町です。砂漠の中のオアシスのような町です。一般の人々からは、その罪深さからあらゆる面で交わりを絶たれていた徴税人の頭が、イエス様の到来によって大きく生き方を変換させられるという話です。また、使徒書はテサロニケの信徒への手紙二1:1以下で、主の日(終末)が遅れていることを踏まえ、私たちはどう生きるべきかが記されています。
 
 福音書を中心に考えます。今日の福音書には、先主日福音書にも登場した「徴税人」が出てきます。今日の個所は、たとえ話ではなく、実際にイエス様に出会った人物として登場します。こんな話です。
 イエス様は、弟子たちを連れて、エルサレムに向かう途中、エリコの町を通られました。この町に、ザアカイという、徴税人が住んでいました。
 徴税人は、人々から税金を取り立てることを職業としていました。当時のユダヤには、ヘロデ家の王がいて、ユダヤの国を治めていましたが、この王は、ローマの皇帝に支配されていて、ユダヤの国はローマ皇帝から派遣されていたポンテオ・ピラトという総督のもと、ローマの兵隊が常駐し、統治されていました。ユダヤ人たちは二重に税金を取られてて苦しんでいました。そのような時代に、ユダヤ人でありながらユダヤ人から税金を取り立てる役割を果たしていたのが徴税人でした。彼らの仕事は、請負業で、一定の金額をローマの総督や、ユダヤ王に納めた上に、自分たちの取り分を積み上げて、税金を取り立てていました。従って徴税人は、経済的には裕福でしたが、ユダヤ人仲間の中では、毛嫌いされ、罪人のレッテルを貼られ、ユダヤ社会からは、つねに白い目で見られていました。
 この徴税人ザアカイは、「徴税人の頭で、金持ちであった」と記されていますから、エリコの町でも有名な徴税人だったと思われます。
 エリコの町の大通りを、イエス様が弟子たちと歩いて来られると、大勢の人たちが集まりました。そこに、ザアカイが通りかかり、なんとかして、その方をひと目見たいと思って、駆け寄りました。しかし、ザアカイは、背が低かったので、群衆に遮られて、見えません。
 イエス様を、なんとしても見たいと思ったザアカイは、イエス様が歩いて行かれる方向に、走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。
 イエス様は、ザアカイが、登っているいちじく桑の木の下を通りかかると、突然立ち止まり、上を見上げて言われました。
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」と。英語の聖書(NRSV)では、「I must stay at your house today.(あなたの家に泊まらなければならない)」とありました。神の計画によって今日あなたの家に泊まることが既に決まっているという強いニュアンスが込められています。
 ザアカイは、急いで木から降りて来て、喜んでイエス様と弟子たちの一行を、自分の家に案内しました。ご馳走を用意させ、イエス様を歓待した、と思います。
 後について来た人々は、イエス様が、ザアカイの家に入り、食事をし、話している様子を見て、つぶやきました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と。
 食事も終わりかけた時、突然、ザアカイは、その席で立ち上がり、弟子たちや、家の人たちがいる前で、イエス様に言いました。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」と。
 すると、イエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。そして、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われたのでした。

 このような話です。このイエス様とザアカイの出会いの話を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 この話は、私たちに、いろいろなことを教え、考えさせます。
 日本語聖書では分かりづらいのですが、ギリシャ語原文で読んで気がついたことがあります。それは前半と後半に「捜す」と言う言葉が使われていることでした。(ギリシャ語では「ゼーテオー」と言う言葉です。)この言葉がキーワードであるように思いました。
 3節にザアカイが「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。」とありますが、この「見ようとした」は直訳すると「見ることを捜した」となります。英語では、「He was seeking to see. 」とありました。ザアカイはイエス様を捜していたのです。そして今日の福音書の最後の節、10節には「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」とありますが、ここにも「捜す」と言う言葉が使われています。
「失われたものを捜して救うため」は英語では「To seek and to save the lost」とありました。失われたもの(英語ではThe lost )は、ルカ15章にある3つのたとえ(見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、いなくなった息子(放蕩息子)のたとえ)で代表される、見失ったり無くしたり、いなくなったりしたもののことです。そういった人や物を捜して救うためにイエス様は来られたのです。
 ですから今日のイエス様とザアカイの出会いの話は、救いを「捜す」ザアカイが、失われたものを「捜す」神様と出会ったという話であるとも言えます。救いを「捜す」人は、その人を「捜す」神様と出会うことができるということではないでしょうか?
 神様と出会ったザアカイがしたことは何でしょうか? 8節でザアカイはこう言っています。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」と。
 財産の半分を貧しい人に施し、だまし取った物を4倍にして返すというのです。イエス様に出会った喜びがそうさせたのでしょうか? そうも考えられますが、それだけではないように思います。
 8節の言葉をよく見ると、ザアカイは、まずイエス様に、「主よ」と呼びかけています。この言葉は、教会において、神様に対して、または、イエス様に対して、信仰を告白する言葉です。ただ単に、「ご主人様」という意味のほかに、「あなたこそ神、あなたこそ主であり、神様です」という意味を持っています。
 「あなたの背後におられる神を感じます。神の前に懺悔(罪の告白)をし、悔い改め(罪の償い)をします」という思いを込めて、ザアカイはこの言葉を言ったのではないでしょうか?
 ザアカイは罪人を捜す神様に出会い救われ、本当の喜び・幸せを見出しました。そのような人は、神様に祈り、罪の告白をし、悔い改め・罪の償いをしようとするのだと思います。そのような人は「主を信頼する人」であります。

 そのことについては本日の答唱詩編でも示されています。詩篇32編の1・2節、5~8節、11・12節です。
1 幸せな人、罪が赦され∥ そのとがが覆われた人
2 幸せな人、主にとがめられることがなく∥ 心に偽りのない人
5 わたしは罪をあなたに表し∥ わたしのとがを隠さずに言う
6 「いと高き主に、わたしは罪を告白しよう」∥ あなたはわたしの罪を赦し、 わたしのとがを清めてくださる
7 あなたを敬う人は悩みのときにあなたに祈る∥ 洪水が襲ってきても、その身 に及ぶことはない
8 あなたはわたしの隠れ場∥ 苦しみからわたしを助け出し、救いの喜びで覆っ てくださる
11 悪人は嘆きに包まれ∥ 主を信頼する人は恵みに覆われる
12 正しい人は主のうちにあって喜べ∥ 心の正しい人はみな喜び歌え
 1・2節のように、「幸せな人、それは罪が赦され、心に偽りのない人」です。また、5~8節で示されているように、「主に罪を告白すれば主は罪を赦し清めてくださり、悩みの時主に祈れば救いの喜びで覆ってくださる」のです。そして、11節のように「主を信頼する人は恵みに覆われる」と歌っています。

 福音書に戻ります。イエス様は、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と、言われました。ザアカイは、イエス様を捜し、イエス様と出会うことによって、救われたのです。イエス様を捜すザアカイは、失われたものを捜すイエス様に出会い、悔い改めました。お金はあっても心に空洞のあったザアカイはイエス様によって心が満たされ、主に信頼し幸せな人となったのです。
 皆さん、私たちも、人生のあるとき、失われた者を捜すイエス様に出会い救われ、悔い改めて(神様の方を向いて)教会に連なる者とされました。今日は午後に私たちの教会墓地で「埋葬式及び逝去者記念の式」がありますが、主を信じて世を去り、今は主のもとにいるこの教会の先達の方々の信仰に倣いたいと願います。そして、生涯この主に信頼し、終わりの日まで信仰生活を全うできるよう祈り求めて参りたいと思います。