マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第12主日 聖餐式 『私たちに報いをくださる神』

 本日は聖霊降臨後第12主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、シラ書 10 :12-18とルカによる福音書14 :1、7-14。神は高慢な者を低くし謙遜な者を高くすることを知り、お返しできない人を招いたとき神が私たちに報いをくださること、私たちも「お返しができない者」として招かれていることをおぼえ、日々の生活を送ることができるよう祈り求めました。究極の「へりくだり(謙遜)」の実現として、聖マルコ教会の祭壇の十字架像も示しました。

   私たちに報いをくださる神

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は聖霊降臨後第12主日、聖書日課は特定17です。福音書ルカによる福音書の14章1節及び7節から14節までで、9章から始まったエルサレムへの旅の途上における、ある安息日の一場面です。通常、安息日には正午頃に会堂で礼拝があり、聖書が読まれ、説教や祈りがなされました。その後、有力なユダヤ人の家で、盛大な昼食会が催され、いろいろな人が招待されました。今回はあるファリサイ派の議員の家の食事の席でのことです。14章7節以下の聖書協会共同訳聖書の小見出しは「客と招待する者への教訓」で、11節までの前半は宴席に招かれた客への勧め、12節から14節の後半は招待する者への勧めの二部構成となっています。イエス様はまず、その食事に招かれた人たちに向かって話し、後半は招いた人に向かって話しておられます。

 本日の聖書の箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 7節以下を少し詳しく、見て参ります。
 まず前半の箇所です。イエス様は招待された客が上席を選んでいる様子に気づいて、彼らにたとえを話されました。8節から10節にこうあります。
 「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも名誉ある人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うだろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目(めんぼく)を施すことになる。」
 イエス様はそう話されました。イエス様がそのように話された意図は何でしょうか?  処世術を教えておられるのでしょうか?
 そうではなさそうです。イエス様はあらかじめ上席に指定されている人がそこに行くのを批判しているのではなく、上席を選びたがる精神を批判しておられます。この精神は裏を返せば人を見下げる精神と考えられます。
 そして前半の最後11節でこう言われます。「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と。これは直訳すれば「すべて自分を高くする者は低くされるだろう、そして、自分を低くする者は高くされるだろう」となります。ここでの受動形は、神様が行為の主体であることを婉(えん)曲的に表現する神的受動形と見ることができます。
「自分を高くする者は神が低くするだろう、そして、自分を低くする者は神が高くするだろう」という意味になります。主語は「神」であり、人ではありません。「神は自分を高くする者、高慢な者を低くし、自分を低くする者、謙遜な者を高くする」というのです。これが人間に対する神様の態度です。

 今日の日課で読まれた「旧約聖書続編」シラ書(集会の書)の冒頭にも、このように述べられています。10 章12 節から14節です。
 「人間の思い上がりの初めは、主から離れること 自分を造ってくださった方から 心が離れることである。思い上がりの初めは罪であり かたくなに罪を犯し続ける者は 忌まわしい悪事を雨のように降らせる。 それゆえ、主は前代未聞の災難を下し 彼らを滅ぼし尽くされたのである。主は、支配者たちの玉座を打ち壊し 代わりに、謙遜な人をその座に着けられた。」
 神様は思い上がる者を低くし、謙遜な者を高くされるのであります。

 福音書に戻ります。イエス様は続いて、招いた人にもこう言われました。12 節から14節です。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」
 そのように言われました。イエス様は何をお話ししようとされているのでしょうか?
 イエス様は、貧しい人や障害のある人を食事に招きなさい、と言われます。障害者に対する古代イスラエルの見方は非常に差別的なものでした。旧約聖書の中でも、「体に欠陥のある者は神の食べ物を献げるために近づいてはならない。」(レビ記21:17)とか、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル記下5:8)というような箇所があります。イエス様はそのように差別され、排除された人々こそ食事に招きなさい、と言われます。そしてそれは「その人たちがお返しをできないからだ」と言われるのです。
 イエス様は最後に、「正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう」と言われます。この「報われるだろう」も神的受動形で、時制は未来です。お返しできない人を招いたとき、私たちに報いを与えてくださるのは神様です。宴会に招いた人から返礼を受けなくても幸いなのは、将来、神様が返礼される、神様が私たちに報われるからであります。
  さらに言えば、私たちは「貧しい人や障害のある人」ではないか、という思いがあります。完全な人はいません。「すべての人は何らかの障害を負っている」とも言えます。そう考えれば、神の国の宴会に私たちは招かれているのだと思います。私たちは「お返しができない者」として招かれています。神様はそのような力のない私たちと共にあり、私たちが神の国の食卓にあずかることを喜ぶお方なのです。
 
 今日の聖書を通して、神に従う生き方として求められているのは「へりくだり(謙遜)」という姿勢です。この「へりくだり」は、イエス様が教訓として人々に語っているだけではありません。自らが徹底した「へりくだり」を行い、示されたことによって、この教えを永遠のものとしています。それが受難と十字架上での死にほかなりません。今、皆さんの前にあります祭壇の十字架像をご覧ください。

 イエス様は十字架上で静かに頭(こうべ)を垂れ、目を閉じ、自らの死を神の御心として受け入れています。ここに「へりくだり」についての究極の教えがあります。イエス様自身の口から語られている、本日の聖書の中心聖句「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」は、このイエス様の受難と十字架の死を経て、復活、昇天し、今や全能の父の右に座しておられることのうちに、究極の「へりくだり(謙遜)」の実現があるのです。 
 私たちがなすべきことは、この主イエス・キリストを見つめ、神様に信頼し、神様からの祝福を待ち望むことではないでしょうか?

 皆さん、「神は自分を高くする者、高慢な者を低くし、自分を低くする者、謙遜な者を高く」されます。そして、「お返しのできない人」を招くとき、神様が私たちに報いをくださるのです。また、私たちも「お返しができない者」として招かれています。そのことをおぼえて、日々の生活を送ることができるよう祈り求めたいと思います。