マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『広隆寺「千手観音立像」に思う』

 前々回のブログ及び先日の説教で広隆寺弥勒菩薩像」について記しました。今回ここを訪れ、弥勒菩薩像と共に心惹かれたのが「千手観音立像」でした。

「千手観音立像」は「弥勒菩薩像」の反対側にあり、像高264㎝とかなり大きい木造の仏像です。この像は弥勒菩薩像の静けさとは対照的に動的な印象があります。
「千手観音」は「千手千眼観自在菩薩」の略称であり、観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿です。千は満数で、目と手はその慈悲と救済のはたらきの無量無辺なことを表わしています。広隆寺の「千手観音立像」は頭に11面があり、42の大きな手をそなえ、各手の掌に一眼をつけ、それぞれ持物を執るか、印を結んでいます。42の手の意味については、胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救い、「25×40=1,000」であり、千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している、と御像の隣の解説にありました。
 この解説ではさらに、頭の11面は仏の教えをあまねく伝え、42の手はそれの具体的な働きで様々な形で苦しむ衆生を救う、とありました。私はこれを、伝道や宣教について、御言葉を伝えると共にその証として行動することの重要性を示していると感じました。

 ヤコブの手紙にこうあります。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません。」(1章 22節)
「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まることなく自分を守ること、これこそ父なる神の前に清く汚れのない宗教です。」(1章 27節)
 言葉だけでなく行いによって主を証したいと願います。そうすることを父なる神はお望みだと思います。そうできるよう祈り求めたいと思います。
 広隆寺の「千手観音立像」から、このようなことを思い巡らしました。