マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第2主日聖餐式 『神の国の狭い戸口から入る』

 本日は大斎節第2主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課
フィリピの信徒への手紙3:17-4:1とルカによる福音書13:22-35。
 説教では、私たちは神の国に招かれていることを知り、その狭い戸口から入ろうと努め、己に打ち克つことができるよう祈りました。
 「帰天」ということについて、昨日執り行われた新町の信徒の方の葬送式に関しても言及させていただきました。

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   『神の国の狭い戸口から入る』

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は大斎節第2主日です。大斎節は、イエス様の荒れ野での試練に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。イースター(復活日)を迎える準備の時でもあります。

 今日の福音書箇所、ルカの福音書13章22節から35節について学びたいと思います。聖書日課では22節から30節はかっこに入っていて、取り上げなくてもいいようになっているのですが、私はこの部分も含んだ方がイエス様が伝えようとしたメッセージがよく分かると考えましたので、ここも入れて長くお読みしました。そして、今回はこの箇所の前半、かっこの部分を中心にお話ししたいと思います。

 どのような状況の箇所かは、最初の22節に記されています。
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けられた。」
 イエス様の宣教の生涯は、旅の日々でした。目的地はエルサレムエルサレムはイエス様が十字架に架けられた場所です。イエス様の旅は、十字架への旅だったと言えます。

 続く23~24節はこうです。
『すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』
 マタイによる福音書では、7章13節に「狭い門から入りなさい。」と記されています。意味は同様です。
 イエス様は、狭い戸口、狭い門から入るように努めなさいと教えておられます。
 イエス様が言われる「戸口」とか「門」から入るとは、どこへ入るのでしょうか? その戸口を入った向こうには、何があるのでしょうか?
 その戸口の向こうにあるのは、「神の国」です。神様が統治している「神の王国」です。神様の力が、神様のみ心が、すみずみまで行き渡っている状態、そのような世界です。

 続いてイエス様は、神の国について、たとえで語っておられます。(25-27節)
「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。その時、あなたがたは、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちの大通りで教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不正を働く者ども、皆私から離れよ』と言うだろう。」
 イエス様はこのようなたとえの話を群衆にされました。
 この時、イエス様を囲んで話を聴いている群衆はどのような人たちだったでしょうか? それは、ユダヤ人たちです。当時のユダヤ人は、自分たちこそアブラハムの子孫であり、神様によって選ばれた民族である、神様から救われることは保証されていると思っていました。律法、掟さえ守っていれば正しい、「神様、神様」と言っていれば信仰深いのだと思っていた人たちでした。
 イエス様は、このような人たちに「神の国に入るのは難しい」と語っておられるのです。

 また、神様である家の主人は、「あなたがたは神の国から外に投げ出され、泣きわめいて歯ぎしりする。その間に、異教徒、異邦人と言われているユダヤ人以外の人たちが、東から西から、また南から北から神の国の宴会に招かれ、この宴会の席につくことになるだろう」と、言われたのです。
 神様の思いが、ユダヤ人への救いの約束を破棄し、異邦人に向かって門戸が開かれようとしていることにあることが分かります。これは異邦人である私たちにとって大きな福音です。私たちは神の国の宴会に招かれているのです。

 31節以下は簡単に触れます。
 イエス様はエルサレムで起ころうとしている自身の十字架について33節でこう行っています。「ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者エルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と。
 ここの「進んで行かねばならない。」の「ねばならない」は、ギリシア語ではデイという言葉で、神様の御計画とか願いを表す大切な言葉です。ここではイエス様の並々ならぬ決意を感じます。
 さらにユダヤ人たちに対して35節で「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」と言っています。「家」とは心の拠り所。ここの「お前たちの家」とはイエス様の誕生の頃にヘロデ大王が拡張したエルサレム神殿のことです。それが崩壊すると予言しているのです。
 エルサレム神殿が崩壊する。それはなぜでしょうか?  その答えは34節にあります。
エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
 ここのエルサレムとはユダヤ人のことです。神様は「めんどりが雛を羽の下に集めるように」慈しんだのに、ユダヤ人はそれに応じようとしなかったからだというのです。ちなみに「鳥が雛を羽でくるむこと」を「育(はぐく)む」というそうです。今日の退堂で歌う聖歌522番の2節にも「みつばそのもとに 守り育みませ」とあるとおりです。そのような愛情で神様は私たちを慈しんでおられ、その神様が統治する国が「神の国」です。それは私たちの居場所である家(ホーム)です。

 今日の使徒書のフィリピの信徒への手紙3章20節にこうあります。「私たちの国籍は天にあります。」と。私たちの本来の居場所である国は「天の国」、それはつまり「神の国」であります。それこそが私たちの本来の家(ホーム)です。
 
 昨日、私たちはG・Y・Y兄弟を「天の国」に送りましたが、そこは私たちが元々いた故郷、本来の家(ホーム)で、それゆえ「帰天」というのです。私たちは、そこで先に召された方々と再会できるのです。
 そして、神の国であり「ホーム」の現在における場所が教会です。ここを居場所とすることをお勧めすると共に、新町聖マルコ教会が本来の「神の国」の先取りとなれますよう祈ります。

 皆さん、すべての人は自分にとっての「ホーム」を求めています。そして、ここに、異邦人である私たちを慈しみ招いている、神様が統治する国があります。それが「神の国」です。それこそ私たちが籍を置く家(ホーム)です。教会はその現在における場所であります。      
 この大斎節の期節に際して、自分をふり返り、神の国に入ることを全身全霊をもって求め、願っているかどうか、自分を吟味したいと思います。そして、神の国の狭い戸口から入ろうと努め、己に打ち克つことができるよう、祈って参りたいと思います。