マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第2主日 聖餐式『私たちを招かれるイエス様』

 本日は聖霊降臨後第2主日。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、ホセア書5:15-6:6 、詩編50:7-15とマタイによる福音書9:9-13。説教では、マタイを招いたイエス様は私たちをも招いていることを知り、私たちが、慈しみを求めるイエス様の呼びかけにどのように応えていけば良いか考え、生涯、主に仕えることができるよう祈りを捧げました。
 今日の福音を描いた絵画、カラヴァッジオの「聖マタイの召命」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第2主日です。聖霊降臨日(ペンテコステ)から2週間がたちました。

 本日の福音書の箇所はマタイによる福音書9章9節~13節で、徴税人マタイの召命の箇所です。聖書協会共同訳聖書の表題は「マタイを弟子にする」です。ここでは、イエス様と弟子たちが、神の救いの外にあるとされた徴税人や罪人と食事をすることは、「神が喜ぶのは慈しみであっていけにえではない。」とのホセアの預言の成就であると主張しています。

 今日の福音書を振り返ります。
 9節で、イエス様は、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「私に従いなさい」と言われました。
 そこは関所のようになっていて、荷物を持って道を通る人々から通行税を取り立てている収税所という所でした。マタイは、そこで働いている徴税人でした。徴税人とは、取税人とも言いますが、徴税請負業というような仕事でした。現在の税務署の職員の仕事内容とはまったく違います。
 税金を集める仕事は、その地域の総督に与えられていましたが、実際には、税金を集める「徴税人」を現地で募集し、入札でいちばん高い値段をつけた人に徴税人の権利を与え、集めさせました。給与は、ローマ帝国から支払われるわけではなく、その分も含めて、ユダヤ人たちから徴税するというシステムでした。徴税人の権利を買った人は、指定された期日までに、税金をローマ帝国に納めなければいけませんが、ユダヤ人たちからどのくらい税金を取り立てるのかは、徴税人自身に任されていました。ローマに納める金額は決まっているため、たくさん取り立てれば、その分、徴税人の収入が増えるのです。
 彼らは、一定の地域から請け負った以上の金額を取り立てたものは自分たちの利益になりましたから、利をむさぼり、情け容赦なく税金を取り立てる徴税人もいて、ユダヤ人たちはこの徴税人を憎んでいました。王や皇帝の手先になって同胞を苦しめるいうことで、その職にある者を、娼婦や異邦人と同じように見て、罪人というレッテルを貼っていました。

 イエス様は収税所に座っているマタイを見かけて、何の予告もなく、「私に従いなさい」と言われました。マタイは、それを聞いて、すぐに立ち上がりイエス様に従いました。徴税人マタイは、イエス様の弟子の一人に加えられたのでした。
 ちなみに、「マタイ」はイエス様がつけた名前で、本名は「レビ」です。マタイとは「神の賜物」という意味です。マタイという名前には「神による数々の賜物・恩恵が与えられた者」という意味が込められています。その背景には、彼が「徴税人」であって、当時のユダヤ人から嫌われ憎まれていて、使徒としては一般的にふさわしくないにもかかわらず、神の多大な恩恵を受けた者として、自分の名前を「マタイ」と記していると考えられます。

 このシーンを描いた絵画で有名なのはカラヴァッジオの「聖マタイの召命」です。この絵です。

 この絵では、右側の窓から射し込む光に照らし出されたイエス様とペトロが立体的に描かれ、劇的なシーンが描かれています。「私ですか?」と胸を押さえる真ん中の髭の男がマタイであるとする説が一般的ですが、最近では髭の男は自分ではなく隣に居る若者を指差しているようにも見え、若者は右手でその金を数え左手で財布を握りしめていることから、この左端の若者が聖マタイであるという説があります。しかし、カラヴァッジオには「聖マタイの霊感」や「聖マタイの殉教」という作品もありますが、どれも髭の中年の男ですので、やはりこの真ん中の髭の男がマタイだと私は思います。
 イエス様から「私に従いなさい」と言われた徴税人のマタイはイエス様に従い弟子となりました。マタイは徴税人という職を捨てイエス様の弟子になりましたが、ユダヤ人である他の弟子たちがすんなり彼を受け入れたかというと、それは難しかったのではないかと、私は思います。

 続いて、イエス様は、ある家で食事をしました。そこには弟子たちもいます。もちろんマタイもいます。この食事会は、私には自宅でマタイが開いたお別れ会か新たな出発の宴会であるように思います。その席に、他の徴税人もいれば、おそらく娼婦など罪人と言われる人たちも一緒にいて食事をしていました。これは当時の常識としては考えられないことでした。
 ファリサイ派の人々は、この光景を見て弟子たちに言いました。11節後半です。
 「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。
 ユダヤ人でありながら「徴税人や罪人たちと食事を共にするとは、何ということか」と。
 それは、そのことだけで律法に背いている、汚れた者と食事を共にするとその人も汚れるという非難でした。
 これを聞いたイエス様は言われました。12節後半から13節です。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」    
 丈夫な人、健康な人に医者は要らない。本当に医者を必要とするのは病人なのだと言われます。自分は正しい、自分は強いと思っている人は、「私を」必要としない。私を必要とするのは、神の前に自分を罪人であると認め、自分の弱さ、醜さを認めている人たちだ。ここにいる人たちには「私を」必要なのだ。私はそのためにこの世に来たのだと暗に言っておられるのです。
 ファリサイ派の人々は、自分の正しさを誇るために、自分たちは律法を守っている、神の戒めを全部守っている、と主張します。安息日をきちんと守っている。決められた日に神殿に行き、羊や牛などのいけにえを規定にそって毎回ささげている。献金もささげている。市場から帰ると手と足を洗い、体を清めている。罪人とは近づかない。だから私たちは正しい、私たちこそ救われるべき者だ。彼らは滅びて当然だ。ファリサイ派の人たちは、そのように考えていたと思います。
 その彼らに対して、イエス様は言われます。
「『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」 
 「行って学びなさい」というのは、「あなた方は、律法の専門家だと日頃から威張っているではないか。律法に書かれていることをもう一度ちゃんと学んできなさい」ということです。
 それは、旧約聖書のホセア書の言葉です。先ほどお読みした6章6節にこうあります。
「私が喜ぶのは慈しみであっていけにえではない。神を知ることであって焼き尽くすいけにえではない。」
 イエス様の言葉、「慈しみであって」の「慈しみ」は、ギリシャ語で「エレオス」という言葉です。これは、同情、憐れみ、慈しみ、慈悲深さ、さらには、好意、親切などと訳されます。それは、ホセア書の「慈しみであって」の「慈しみ」(ヘブライ語の「ヘセド」)と同じ意味を持っています。今回の聖書協会共同訳では「慈しみ」と訳されましたが、新共同訳では「憐れみ」でした。「憐れみ」は上から目線で「かわいそう」というイメージがあるので「慈しみ」と訳されたように思います。ホセア書の「慈しみ」は新共同訳では「愛」と訳されていて、それはそのままでも良かったようにも思いました。  
 自分勝手なことばかりしていて、形だけは「神よ、神よ」と言って、いけにえの動物を何百頭、何千頭と、神殿にささげても、本当に神を慈しむ心、神のみ心を知ること、そして、人を慈しむ「心」というものがなければ、神は決して喜ばれない。イエス様は、ファリサイ派の信仰がいかに形式的で偽善的であることを厳しく指摘しておられます。
 それは、私たちの人間関係でも同じことを感じます。
 どれほど正しいことを言っても、どれほど言葉を尽くしても、その言葉の向こうに「慈しみ(愛)の実体がなければ」人の心を打ちません。その言葉は相手に届かないのだと思います。

 13節の『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」を本田神父はこう訳しています。
「『わたしが求めるのは人の痛みを分かることであって、いけにえではない』とはどういうことか、行って教えてもらいなさい。わたしが来たのは、『正統派の人』を招くためではなく、『道をふみはずした者』を招くためである。」
 本田神父は「慈しみ」を「人の痛みを分かること」、「正しい人」を『正統派の人』、「罪人」を『道をふみはずした者』と訳していて、それは真実を伝えていると思います。

 「慈しみ(憐れみ)」という言葉については、私たちは主の祈りの前や聖餐式の最初のところで「主よ、憐れみをお与えください。キリストよ、憐れみをお与えください」と祈っています。これは「小嘆願」と呼ばれるものです。カトリック教会では、昨年のアドベントからこの箇所を「主よ、いつくしみをわたしたちに。キリスト、いつくしみをわたしたちに。」と変更しました。聖公会も祈祷書改正委員会で検討しているのではないかと思います。「憐れみをお与えください。」でも「いつくしみをわたしたちに。」でも、意味としては「どうか愛してください、関わりを断たないでください」という、神に対する必死の呼びかけの言葉です。私たちは、ことあるごとにこの小嘆願を心を込めて唱えたいと思います。

 神は私たちに必ず慈しみをくださるということが約束されています。それは、今日の福音書の最初で、イエス様が通りがかりに出会ったマタイに声をかけるというところからも明確です。神はどのような人にも慈しみを与えてくださる。通りがかりのマタイが声をかけられたということが示すのは、イエス様がマタイだけでなく誰れにでも「私に従いなさい」と声をかけてくださるということです。慈しみ(憐れみ)の心を持つ神から私たちはみな招かれているということです。

 私たちも、人生のあるときイエス様から「私に従いなさい」と招かれ、弟子となりました。しかし、それで安心ということではないと思います。イエス様の弟子となったマタイは2年半イエス様と生活を共にし、徴税人の時の「記録する」という賜物を生かしてイエス様の生涯を記録し、マタイによる福音書を記し、伝承ではこの後エチオピアで33年伝道し、最後は殉教したと伝えられています。私たちもマタイと同じようにでなくても、イエス様の弟子としてイエス様と共に歩み、自分に与えられた賜物を生かすことが求められているのではないでしょうか?

「『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」
 このみ言葉は私たちにも向けられています。
 私たちが気づくよりも先に、神はすでに私たちを慈しみ愛してくださっています。慈しみとは「人の痛みを分かること」とも言えます。それを現実の生活の中で実践することが求められていると考えます。私たちは本日与えられた福音から、慈しみを求めるイエス様の呼びかけにどのように応えていけば良いか考えたいと思います。そして生涯、主に仕えることができるよう祈りを捧げて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン