マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 15主日 聖餐式『共におられるイエス様と神の思いに従う』

 本日は聖霊降臨後第 15主日。新町の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、エゼキエル書33:7-11 、詩編119:41-48とマタイによる福音書18:15-20。説教では、きょうだいへの忠告と共に祈ることの根本には、イエス様が共におられること、そして、小さな者が一人も滅びないことを願う神の思いがあることを知り、私たちと教会は、その神の思いに従うことができるよう祈り求めました。
 テーマとつながりがあると考える私の「かなの家」での体験についても記しました。説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第15主日です。福音書はマタイによる福音書18:15-20で、教会内の罪を犯した者への忠告と教会に与えられている罪を赦す権威の箇所です。旧約聖書エゼキエル書33:7-11で、悪しき者に向かい警告を発する見張りとしてのエゼキエルの任務を語る箇所で、特に11節の中ほどの「悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」という神の言葉が福音書と対応しています。

 福音書について考えます。マタイ福音書18章は「教会の章」と言われ、教会共同体のあり方の箇所と考えられています。1-5節では子どもを受け入れること、6-9節では小さい者をつまずかせないことが語られます。一貫しているのは、共同体の中の弱いメンバーに対する配慮を欠かさないということです。本日の箇所は10-14節の「迷い出た羊」のたとえの続きで、特にその最後の14節の御言葉「そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。」の後に語られていることに注目したいと思います。

 本日の箇所、マタイによる福音書18:15-20は大きく3つの部分に分かれます。①は15節から17節、②は18節から19節、③が20節です。
 まず15節でイエス様は弟子たちにおっしゃいます。「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。」と。
 今回の新しい聖書翻訳、聖書協会共同訳では「きょうだい」とひらがな表記になりました。「兄弟」と漢字表記にすると男性のみと思われますが、この「きょうだい」には男性だけでなく女性も含まれているのでひらがな表記になりました(姉と弟のけんかも「きょうだいげんか」と言います)。
 ここでは、「きょうだい」(キリストに従う教会共同体の仲間)が罪を犯したなら、見過ごしにすることなく、とがめる(以前の口語訳や新共同訳では「忠告する」)よう命じられています。「きょうだいを得る」ために、「小さな者」を心にかける神様の思いを知らせることが、ここで求められている忠告です。 
 しかし、忠告を聞かない者もいます。その場合にも、「きょうだいを得る」ために忠告しなければなりません。「とがめる」または「忠告する」と訳したギリシャ語「エレンクオー」は「光にさらす」を意味します。忠告とは、小さな者の滅びを望まない神の光にさらし、神の思いへと向けさせることです。一人で忠告しても聞かないなら、「二人か三人」で忠告し、それでも聞かないなら、「教会」に言いなさいとイエス様は命じておられます。教会にも聞き従わないなら、最後はイエス様が裁きを行います。その人は「異邦人や徴税人」と同様と見なされます。ここは一見すると差別的なニュアンスを感じますが、それはイエス様の本意ではないと思います。イエス様は異邦人や徴税人に対してどうされたでしょうか? イエス様は彼ら差別されてきた人々と食事を共にし、徹底的に寄り添われました。イエス様が「異邦人や徴税人」にされたことと同様に彼らに寄り添うことが求めておられると私は思います。  
 ここまでが①です。そして、これからが②です。
 「あなたがた」は「地」の上にあって、「天」の父と結びついています。教会が下す判断は天の父の判断を表します。19節にこうあります。
『また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。』
 あなたがたのうちの二人が願うことは何でも実現しますが、それを起こすのは「天の父」です。天の父がそうされるのは、複数の仲間が心を一つにして祈るからです。
 ③の20節はこうです。
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」
 ギリシャ語原文では冒頭に「なぜなら」という言葉(「ガル」)が入っています。英語の聖書でも「For(なぜなら)」が冒頭にありました。これはこれまでの15節から19節のすべてを受けての理由文と考えられます。
 罪を犯した「きょうだい」への忠告は、「きょうだい」を神の国に得るために行われますが、それはその中にイエス様が共におられるがゆえにできることなのです。
 同様に、天の父が願いをかなえて下さるのは、複数の信徒仲間がイエス様によって集められて祈り、その中にイエス様がおられるからなのであります。
 この「私もその中にいる」というイエス様の言葉はマタイ福音書の主要テーマであり、それはイエス様が「インマヌエル(神は我たちと共におられる)」(1:23)と呼ばれる存在であり、イエス様自身が「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)と約束された存在であるということです。

 本日の箇所では「きょうだい」への忠告と、複数の仲間が共に祈ることの重要性が語られました。そして、その根本には神様が、イエス様が私たちと共におられるということがありました。このことで、思い浮かぶ私自身の体験があります。それは神学校の2年の時、2016年8月、静岡の「ラルシュかなの家」の実習でのことです。「ラルシュかなの家」は知的障害のある「なかま」とスタッフである「アシスタント」が共に暮らす共同体(コミュニティ)です。私はそこで3週間、なかまの人やアシスタントと寝食を共にしました。週に一回、Ⅰ時間程度、なかまの人と私の賜物(タレント)であるミュージック・ケアもしました。 
 かなの家では、なかまの人やアシスタントの信頼関係を重視し、毎月、その月の誕生者を祝う誕生会やなかまの人とアシスタントが一緒に行う全体会議がありました。そこでは個人を祝ったり、それぞれの行動を見つめたり対話を大切にしていました。月一度、アシスタントが集まって、なかまの人への対応の仕方を見つめ、他のアシスタントに「こうしたらどうか」と忠告するなど、お互いに意見を述べ合う会議もありました。
 また、かなの家では、なかまの人と共に行う祈りを大切にしていました。毎日、すまいの施設(グループホーム)で朝の祈り・夕の祈りを行い、主日にはなかまの人と一緒にカトリック静岡教会のミサに参列していました。
 施設での朝夕の祈りの様子はこのようでした。

 朝の祈りは、聖歌で始まり、その日の聖書を読み沈黙し、また聖歌を歌い、主の祈りか聖母マリアの祈りをしていました。夕の祈りは、聖歌、聖書朗読の後、一人一人が自分の言葉で祈り、その後、聖歌、ラルシュの祈り、主の祈りか聖母マリアの祈りをしていました。朝夕の祈りとも聖歌(かなの家で選曲されたもの)はなかまの人が選び、無伴奏かギター伴奏で歌っていました。なかまの人の祈りは「神様、今日は○○さんがボランティアで来てくれてよかったです」とか「神様、今日はミュージック・ケアが楽しかったです」といったものでした。朝夕の祈りはシンプルなものですが、なかまの人とアシスタントが心を一つにして祈る時は聖なる時であり、ここには確かにイエス様が真ん中におられたと感じました。
 かなの家が大切にしていたのは、信頼関係に基づく対話と祈りでした。

 ところで、キリストの名のもとに集められた私たちが、語り合い、共鳴し合うとき、イエス・キリストが共にいる、ということは、先ほど歌った聖歌第442番に示されています。歌詞をご覧ください。
『ともにあつまる 語りあう ひびきあう そこに キリストは 共にいる
 耳をすます 見つめあう 手をつなぐ  そこに キリストは 共にいる
 手をさしのべる 腕を組む 歩き出す  そこに キリストは 共にいる』
 耳を澄まし見つめ合い、手をさしのべ共に歩む、それが神様の思いであり、その御心を実践する私たち、そして教会でありたいと思います。

 皆さん、本日の福音書では、「きょうだい」への忠告と共に祈ることの重要性が語られ、その根本には「イエス様が共におられる」、いつも中心にイエス様がいるということが強調され、だから忠告できる、だから願いがかなうとされました。忠告も願いも、それは自分の思いではなく神様の思いを表すものであり、「神様の思い」とは小さな者が一人も滅びないことを願うというものであります。私たち、そして教会は、その神様の思いに従うものでありたいと願い、そうできるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン