マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第8主日 聖餐式『麦も毒麦も共に育つ神の国』

 本日は聖霊降臨後第8主日。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、知恵の書12:13、16-19 、詩編15とマタイによる福音書13:24-30、36-43。説教では、麦も毒麦も今はそのままにされる神の計らいに身を委ね、愛を持ってすべての人と共に育ち、日々神の方を向いて人生を歩んでいけるよう祈り求めました。
 本日の福音にかかる「毒麦」の図や牧野富太郎の言葉等も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第8主日。本日の福音書の箇所は、マタイによる福音書13:24以下の「毒麦のたとえ」と36節以下の「毒麦のたとえの説明」です。
 旧約聖書は続編の「知恵の書」12章からで、心を配り慈悲深い神はまた正義の神でもあり、神の忍耐と罪からの回心を述べており、福音書と調和しています。

 福音書を中心に考えます。
 マタイ福音書13章には天の国(=神の国)のたとえが集められています。先主日の箇所は「種を蒔く人」のたとえで、「どの地にも種を蒔かれる神の姿」が描かれていましたが、それに続く本日の箇所では、神の国の姿が描かれています。それは何かと言いますと、神の国は麦と毒麦が、混ざって育っているという姿であります。   
 前半のたとえの内容はこうです。イエス様が群衆に「天の国(=神の国)はこのようだ」とお話しになりました。ある人が「良い種」を畑に蒔いた後、夜のあいだに「敵」が来て「毒麦」を蒔いて行ったので、気がついた時は毒麦も一緒に伸びてしまいました。僕たちは「良い種しか蒔かなかったはずなのに」と慌てて、「それでは毒麦を抜き集めておきましょうか」と主人に提案します。しかし「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と主人に言われた、というものです。
 毒麦とは何でしょうか?「毒麦」はギリシャ語では「ジザニオン」、ヘブライ語では「ボッサー」で訳せば「雑草」です。ヨブ記31:40等に「雑草」の用例があります。旧約新約聖書大辞典(教文館)に図がありました。

 かなり小麦に似ていますね。穂の長さは小麦よりも長いようです。辞典にはこうありました。「毒麦はイネ科ドクムギ属で、一般に雑草として扱われている。若いうちは小麦とよく似ているので識別が困難であるが、収穫の時期になれば識別しやすくなる。毒麦はもともと毒はもっていないが、植物の表面につく内生菌が毒素をつくり、間違って口にすると味は苦く、めまいを起こしたり、嘔吐することがある」
 毒麦は弱い毒素のある雑草と言えます。若いうちは小麦とよく似ているので、収穫の時期まで小麦と混ざって育っている、その状況を知っている群衆に、神の国の姿として、イエス様がたとえとして述べられたのです。
 後半のたとえの説明は、家の中で弟子たちに対してなされました、そこでは「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」(40節)とあり、最終的に神が毒麦(=罪人)を裁く」という恐ろしい話のようですが、見方を変えれば、それが起きるのは未来であり、「今は裁かない」ということであり、また、「裁くのは神である」と言っていると見ることもできるのです。
 
 このたとえでイエス様が指摘していることはどんなことでしょうか? それを知るためには、当時のイエス様の置かれた状況を確認する必要があると思います。
 この時、イエス様に付いていった群衆にはどのような人がいたでしょうか? 盲人等体の不自由な人々、一縷の望みで病を癒やしてほしいと願った人々、徴税人や娼婦等、ファリサイ派や律法学者たちから罪人と見なされた人々が多かったと推察されます。弟子たちは当時のユダヤ社会の常識から判断して、そのような人たちを自分たちの共同体から排除すべきと考えたのではないでしょうか? イエス様はそのような罪人と見なされていた人たちを「毒麦」とたとえ、それを排除しようとする弟子たちに対して「そのままにしておきなさい」と命じたのではないでしょうか?    
 私たちはどうでしょうか? それぞれの職場・教会・家庭・地域等で、自分たちの常識で自分たちと状況や意見の違う人を「毒麦」と判断して排除しようとしていないでしょうか?
 本日の福音でイエス様は神の国の姿を伝えていますが、「毒麦と麦が混在して育つ、それが神の国である」とイエス様はおっしゃっています。そのイエス様の教えの真意を、私たちは理解しなければならないと思います。
 
 私は月曜が休みで、暇なときは午後テレビで「相棒」や「科捜研の女」というようなサスペンスドラマを見ることがあります。そこでは、最初に犯人と思われる怪しい人が出てきます。いかにも悪そうな、そして動機が明確な人がまず出てきます。いかにも犯人らしいですが、それは必ず犯人ではありません。そして、だいたい意外な人が真犯人となっています。今日の福音で言えば、最初はその人が毒麦かなと思うと案外毒麦ではなくて、麦かなと思っている人が最後は毒麦であるということですから、私たちは軽々と「誰が毒麦で誰が麦か」と判断するのは本当に難しいと思います。

 ところで、植物としての毒麦は雑草の一種です。雑草ということで思い浮かぶ言葉があります。それは今NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルである植物学者、牧野富太郎の「雑草という草はない。それぞれに名前がある」という言葉です。私は以前はそれは昭和天皇のお言葉のように思っていましたが、富太郎が昭和天皇に語った言葉を天皇が覚えていて、ある日、側近が「ここから先は雑草です」と言ったのに対して、天皇が「雑草という草はない。それぞれに名前がある」と語ったようです。入江侍従長のエッセイに書かれているそうです。
 この言葉は、植物を人のように愛情を持って観察し、名前を確認し、もし名前がなければ一つ一つにふさわしい名前を付けていった牧野富太郎だからこそ生まれた言葉だと思います。
 どの草にも名前があり、どの植物にも命がある。そして、どれも切実に生きている。雑草と言われるような草もないがしろにしてはいけない。そんなことを考えさせられます。

 しかし、今日の福音書の「毒麦のたとえ」は、この牧野富太郎の言葉のように、「どの植物も、ひいてはどの人も大切にしなさい」で終わる話ではありません。それはどのようなことでしょうか? 
 それは本日の第1朗読の旧約聖書続編、知恵の書に示されていると考えます。知恵の書は、紀元前1世紀にアレキサンドリアで書かれた「知恵文学」です。本日の箇所では、神は慈悲深く正しく忍耐強い方であることが示され、最後の12章19節にはこうあります。
「あなたは、これらの業を通して 正しい人は人を愛すべきことを あなたの民に教えられ あなたの民に希望を抱かせた。あなたは罪からの回心の機会を お与えになるからである。」
 この「あなた」とは神様のことです。神様は自らの行いによって私たちに人を愛することを教え、私たちに希望を与え、罪からの回心(神に立ち帰ること)の機会をお与えになったのです。

 私たちがなすべきことは何でしょうか? それは自分の判断で毒麦を排除することではないでしょう。今は裁く時ではありません。しかも、裁きは最終的に神様がなさいます。私たちは「そのままにしておきなさい」と命じられた神様の意向に沿い、神の国の中で麦も毒麦も一緒に育ちたいと願います。もしかしたら自分が毒麦かもしれないとも思います。しかし、毒麦(罪人)であっても神様は忍耐強く麦へと変わることのできる回心の機会を与えてくださっているのです。
 私たちがなすべきこと、それは愛を持ってすべての人と共に育つこと、そして罪からの回心(神に立ち帰ること)ではないでしょうか?

 皆さん、神様は私たちが一人も滅びることなく、すべての人々が救われることを願っておられます。その神様を信頼し、麦も毒麦も今はそのままにされておられる神の計らいに身を委ね、愛を持ってすべての人と共に育ち、日々神様の方を向いて人生を歩んでいけるよう祈り求めたいと思います。
 
   父と子と聖霊の御名によって。アーメン