マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第4主日 聖餐式『派遣され、イエス様を認める』

 本日は聖霊降臨後第4主日。午前前橋、午後新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、エレミヤ書20:7-13 、詩編69:7-10、15-17とマタイによる福音書  10:24-33。説教では、愛に満ちた父なる神を畏れ敬い、この世に派遣され、イエス様を私の救い主と認め、自らを捧げて宣教と奉仕の業を行うことができるよう祈り求めました。
 本日の福音と関連していると考える「教会の5要素」「宣教の5指標」のカードも活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 

 本日は聖霊降臨後第4主日です。
 本日の福音の箇所は、マタイによる福音書10:24-33です。イエス様は10章の冒頭で12人の弟子を呼び寄せ、彼らを宣教に遣わそうとされます。それに先だち、その心構えを示したのが、本日の箇所です。ここでは、イエス様の宣教の業を引き継ぐ弟子たちは迫害を必ず受けるが恐れてはならないことなどが述べられています。また、旧約聖書は「エレミヤの告白」の一つで、人々からの迫害ゆえに、エレミヤは、神様から惑わされたと心情を吐露しますが、共にいます主は、彼らに必ず勝利されるとの確信と賛美へと彼を戻す様子が描かれています。なお、エレミヤは紀元前7世紀末から6世紀初めにかけてエルサレムで活躍した預言者です。

 本日の福音について思い巡らします。マタイによる福音書10:24-33で、ここは3つの段落に分かれています。第1段落は24・25節、第2段落は26節から31節、第3段落は32・33節です。それぞれ見て参ります。

 第1段落では、イエス様は弟子と師、僕と主人の関係について述べて、弟子たちの将来を予想しています。ここでイエス様が言わんとしているのは、弟子と師は同じであるということです。25節後半の「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう」が分かりにくいかもしれません。「ベルゼブル」とは悪霊の頭です。この文の意味することは、「イエス様ご自身が悪く言われるのであれば、その弟子たちはもっと悪く言われるだろう」、つまり、「イエス様は迫害され、弟子たちも迫害されるだろう」ということです。

 第2段落で、まず気がつくのが「恐れてはならない」「恐れるな」などという言葉が4回も語られていることです。
 まず、第一に、26節で「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。」とあります。この「人々」とはイエス様や弟子たちを迫害する人々です。具体的にはファリサイ派の人々と考えられます。彼らは、立派な服装を身につけ、権威があるかのように語り、振る舞い、口では「神よ、神よ」と信仰深そうなことを言っています。しかし、その中身は、強欲と悪意に満ちていると、イエス様は、指摘されます。彼らが、いくら権力を誇っても、権威を振り回しても、恐れることはない。その虚栄、見せかけのものは必ず明らかにされる。隠れているものは人々の前に知らされると言われます。だから「恐れてはならない」と、イエス様は言われたのです。
 第二に、28節前半で「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。」と言われます。ここで「命」と訳された原語は「プシュケー」で「永遠の命」を意味します。新共同訳聖書では「魂」と訳されていました。権力者たちは、役人や兵士に命令して、人を捕らえ牢獄に閉じこめて、暴力で人を意のままにしようとします。彼らは人を殺すことができる権力さえ持っています。しかし、たとえ、人を殺しても、体は殺しても、「魂」を「永遠の命」を殺すことはできません。そのような者を恐れるな、とイエス様は言われるのです。
 第三に、28節後半で「むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われます。「ゲヘナ」は口語訳聖書では「地獄」と訳されていました。「ゲヘナ」は元はエルサレムの南にあるヒンノムの谷のことで、動物や罪人の死体を焼却した場所です。そのため、死後、悪人が罰せられる場所、つまり「地獄」の同義語となりました。ここで言われているのは、「命も体も滅ぼすことができる方、神を恐れなさい」ということです。本当に恐れるべき方を恐れなさい。そうすれば、それ以外のものは、何も恐れることはないと明言されたのです。その本当に「恐るべき方」とは、すべてのものに、生命を与え、またその命を取り去ることができる方です。ここでの「恐れる」は恐がるという意味ではなく「畏怖の念(畏れ敬う)」の「怖れる」という意味です。
 29節で「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」とあります。1アサリオンとは、ローマの銅貨で、一番小さな単位のお金で、16分の1デナリオンです。1デナリオンは1日の賃金ですので、1デナリオンを仮に8,000円とすれば1アサリオンは500円となります。2羽の雀が1アサリオンで売られています。2羽をセットに500円で売られているような雀でさえ、神が命を与え、命を取られるのでなければ、飛ぶことも、落ちることもできません。さらに30節で「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」とあります。ここでは、雀も髪の毛も、一般的に価値の低い、取るに足りないものの見本としてあげられています。私たちは、自分の1本の髪の毛ですら、自分の思うままになりません。髪の毛の数さえ、神によって数えられているのです。それは、すべては神の支配の下にあるということです。
 そして第四に、31節で「だから、恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」とイエス様はおっしゃっています。
 あなたがたは、雀以上の存在、多くの雀よりも優れた存在ではないか。あなたがたは、生かされ、存在させられ、また、生きている者にも死んだ者にも支配者である神を知っている。その神に絶対の信頼をおくならば、その他の何者も恐れることはないと言われるのです。
 迫害の恐怖におののく人々に「本当に怖れるべきものを畏れ敬いなさい。それ以外のものは恐れることはない。」と言われるのであります。
 
 最後の第3段落、32・33節にはこうあります。
「だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒む者は、私も天の父の前でその人を拒む。」
 ここには、人々の前で、自分を、私、即ちイエス様を認めるか、それともイエス様を拒む、「知らない」と言うか、ということが問われています。これは12弟子にとどまらず、私たちに対する問いかけです。
 「認める」、この言葉は新共同訳聖書では「仲間であると言い表す」となっており、原文のギリシャ語では「ホモロゲオー」でした。この言葉の元々の意味は「同じことを言う」ということであり、「告白する・言い表す・公言する」の意味でよく使われます。この語は法律用語として「言い表す・公言する」として用いられ、さらにその用法から転じて「罪を認め、告白する」の意味で用いられたようです。罪を正直に認め、言い表すなら、神は真実で公正ですから、罪を赦します。共同体やキリスト者は罪の赦し、すなわちイエス・キリストによる救いを得たことを「公に表明」します。告白は、イエス・キリストが主であることを認め、神が彼を死者の中から復活させたことにより、キリスト者の共同体が救われたことを証言することです。したがって、告白とは「キリスト者が自分に与えられた状況と恵みはすべて神の行った業によると認めることである」と言えます。その告白こそが「多くの人々の前で主イエス様を認めること」であります。そのように告白するなら、イエス様は天の父なる神の前で、私たちを仲間として認めてくださるのです。

 今日の福音書の箇所は、派遣される弟子たちにイエス様がその心構えを語られた場面の一部でした。それは、信仰者として生きる、今の私たちにも語られているものです。そして、「イエス様を認めるとはどういうことなのか」ということが問われています。私は、それは、単に言葉でイエス様が自分の救い主であると公言することではないと考えます。

 では、具体的にはどういうことでしょうか?
 それは、受付に置いたこのカード、「教会の5要素」「宣教の5指標」に示されていると考えます。

 このカードは、2012年の宣教協議会の提言に基づき、2016年に作成され、各教会に配布されました。今回の福音との関連としては、「教会の5要素」では、2番目と3番目、「<ディアコニア> 世界、社会の必要に応え仕えること」と「<マルトゥリア> 生活の中で福音を具体的に証しすること」が、裏の「宣教の5指標」では、「3)愛の奉仕によって人々の必要に応答すること」が該当するように思います。それは、イエス様の弟子としてこの世に派遣され、神の助けを得て、宣教と奉仕の業を行うことと言えます。このことについては、昨日の志木聖母教会で行われた「教会を語る会」でも「教会の使命」として話題になりました。
 このカードについては一昨日の「教会問答勉強会」でも取り上げましたが、ぜひ祈祷書や聖書等に挟んで、ことあるごとに確認していただければと思います。なお、宣教協働協議会は10年に一度開催されますが、コロナで一年延期され、今年の11月に清里で開催されます。その成果等を踏まえて、このカードもさらにリニューアルされるように思います。しかし、基本は変わらないと考えます。

 皆さん、私たちは人を恐れるのでなく、愛に満ちた父なる神を畏れ敬いましょう。人々の前で自分がイエス様によって救いを得たと告白する私たちをイエス様は認めてくださいますから、私たちは喜びを持ってこの世に派遣され、自らを捧げて参りましょう。そして、まことの信仰が増し加えられ、宣教と奉仕の業を行うことができるよう、祈り求めたいと思います。
                                                
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン