マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第2主日 聖餐式『傷ついた復活の主を信じる』

 本日は復活節第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、ペトロの手紙一1:3-9とヨハネによる福音書20:19-31。説教では、目には見えない「傷ついた癒し人」である復活の主がずっと私たちと共にいてくださることを信じ、日々主と共に歩んでいくよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所を描いているマッテア教会聖堂の祭壇の上のステンドグラス「復活のイエス」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 先主日は、復活日(イースター)でした。29名の会衆の参列を得て聖餐式を行い、礼拝後には、会館で祝会も行うことができました。久しぶりにお会いする方も来られ、祝会では近況報告なども行い、交わりの時も持つことができ、感謝いたします。

  さて、本日は復活節第2主日です。聖書箇所について、使徒書はペトロの手紙一 1:3-9で、神が私たちを新たに生まれさせ、イエス・キリストの復活により希望を与え、天に蓄えられているものを受け継ぐ者としてくださった箇所です。
福音書はA年・B年・C年とも共通で同じ箇所、ヨハネによる福音書20:19-31節で、内容は大きく3つに分かれています。①家に閉じこもる弟子たちへのイエス様の顕現(現れること)、②トマスの疑い、③ヨハネ福音書の執筆目的です。

 本日の福音書の箇所を簡単に振り返ってみましょう。
『その日、週の初めの日、墓が空であることが発見され、マグダラのマリアに復活されたイエス様が現れた日の夕方、弟子たちのいる家の2階の部屋(アパ・ルーム)に、イエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエス様は手と脇腹を見せ、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言い、さらに、イエス様は彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦せば罪は赦される」と言いました。
 この出来事があった時には、弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。仲間の弟子たちからイエス様が現れたという話を聞いて、トマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」 と。
 そして、その日から八日後、すなわち1週間後に、復活したイエス様が再び現れ、今度はトマスの前に立たれ、こう言われました。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。
 トマスは思わず、「私の主よ、私の神よ」と言いました。イエス様は「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と言いました。
 この書物が書かれたのは、イエス様が神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエス様の名により命を得るためです。』

 今日の福音書では、3つの言葉にスポットを当ててみたいと思います。
 それは、イエス様の言葉「あなたがたに平和があるように」「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と、トマスの言葉「私の主、私の神よ」です。

 1つずつ考えます。まず、イエス様の言葉「あなたがたに平和があるように」です。本日の箇所では3回使われています。
 「あなたがたに平和があるように」の「平和があるように」はギリシャ語では「エイレーネー」で、ギリシャ語の辞書を引くと「平和」の他、「平安」「平穏」「安全」「無事」「健康」「福祉」とたくさんの訳が出てきました。「エイレーネー」はヘブライ語では「シャローム」と言い、ユダヤ人の日常的な挨拶「やあ、今日は」といったような意味合いをもつ言葉です。この言葉は「主の平和」と言って、私達は聖餐式の中で平和の挨拶として行っています。本日の福音書で、19節、21節と続けて2回「平和があるように」「シャローム」と言っているのは、単なる挨拶以上であることを意味しています。「シャローム」とは、「何も欠けていない状態、そこなわれていない十分に満ち足りている状態」を指しています。「戦争でない」とか「穏やかに」というだけではない、「真に望ましい、救いに満ちた状態」を表す言葉です。この平和は、神様が共にいてくださることにより与えられるものです。
 弟子たちは主イエス様が捕らえられるとちりぢりに逃げてしまいました。先生であるイエス様が捕らえられ殺された、自分たちにも迫害が及ぶか分からない、街には主イエス様の残党を探して捕らえようとしている人々がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、戸に鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。そこへ主イエス様が現れ、何のとがめる言葉も言わずに「あなたがたに平和があるように」「やあ、今日は」と挨拶してくださったのです。イエス様は戸が閉められていても、入ることができました。それは、復活したイエス様の体は、これまでとは別の体であることを示しています。イエス様は別のレベルの命になったのです。「平和があるように」「シャローム」と挨拶されて、弟子たちはどんなにか嬉しくホッとしたことでしょう。弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は戸に鍵をかけて閉じこもるところにはありません。ここの「戸」は原文のギリシャ語では複数になっていました。英語の聖書では「doors」でした。この「戸」は家の戸であるとともに弟子たちの心の「戸」でもあるのだと思います。弟子たちは、いくら鍵をかけていても心の戸は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和は、主イエス様が共にいてくださるところから来ます。イエス様が共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これこそが「キリストの平和」です。

 続いて、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」です。
 25節で、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」と、頑なに言いました。そして、一週間後、イエス様はもう一度、弟子たちの前に現れました。復活された主の体には、十字架に釘付けられた傷跡が残っていました。この箇所が、この聖堂の祭壇の上のステンドグラス「復活のイエス」です。

 イエス様の右の手のひらにはっきりと釘の傷跡が記されています。
 トマスの前に立たれたイエス様は、こう言われました。27節です。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。
 イエス様の傷跡に関しては、イザヤ書53章5節にこうあります。
「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」
 イエス様の受けられた傷によって、私たちに平安と癒しが与えられたことを思います。
 復活したイエス様の体の中で、どこが一番輝いていたのか、と考えると、十字架の傷跡、そこが一番輝いていたのではないでしょうか?
 傷こそが輝く。傷跡というか、傷そのものが一番輝いていた、というのが、私たちに対する復活の大きな恵みではないかと思います。
 祭壇の上にあるステンドグラス「復活のイエス」(指さす)の右の手のひらの釘の傷跡。そこが輝いているように私には見えるのです。
 聖書に戻りますと、トマスはその傷の輝きを見て、イエス様の復活のすごさを、悟ったのではないでしょうか? 傷の輝きを見て、罪の赦しの恵みを感じた。あるいは自分の疑いが吹き飛ぶような信仰の恵みをいただいた。言い換えれば、悲しい心が喜びに変えられる。そのような体験をトマスはその時にしたのだと思います。
 イエス様のことを「傷ついた癒し人」と言う表現があります。ヘンリー・ナウエンに同名の表題の本があります。英語では「The Wounded Healer」と言います。

 この本は「牧師のための手引書」ですが、牧会者のお手本はイエス様であり、それはイエス様自身が傷を負ったからこそ傷を負った人の思いをうけとめ癒やすことができる、牧師もそのようであることが記されています。それは大きな恵みであります。
 そしてその恵みは、ここにおられる皆さん一人一人にも与えられていると言えます。キリスト者であるということは、この復活の恵みに与ることができる、その恵みをいただいているということであり、「傷が輝く」ということと言えるかもしれません。過去の体験や、今体験されているかもしれない、傷や、苦しみや、辛さや悩み。傷は傷のまま、治っていないかもしれない、今も傷を負っている方もおられるかもしれませんが、私たちがイエス様の復活に与るならば、傷は輝き癒やされ、恵みに変わるということです。これこそ神様の慈しみの大きな神秘であります。その恵みを私たちは、今日かみしめたいと思います。
 
 最後に、トマスの言葉「私の主、私の神よ」です。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言っていましたが、主イエス様が現れ、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」と言って、トマスは、自分の罪が主イエス様を釘付けにし槍傷をつけたことを示され、更に主の十字架は自分の罪の赦しであることを示され、感極まり、「私の主、私の神よ」と信仰の告白をしたと私は考えます。イエス様の御体に触れることなしにです。
 それに応えて、イエス様は「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と戒めました。この言葉はトマスに向けられた戒めであるだけでなく、現代に生きる私たちへの励ましでもあります。私たちは肉の目でイエス様を見ることはできません。しかし、イエス様に起きたこと(十字架と復活)を受け入れて信じるなら、「幸い」な人となれるとイエス様はおっしゃっているのです。
  見えないことを信じられるかどうか。見えている傷や苦しみは、「傷ついた癒し人」であるイエス様によってその傷は癒され、恵みがあふれてくるのです。その見えない恵みを信じられるかどうか、ということです。

 本日の使徒書、ペトロの手紙一 1章8節・9節にこうあります。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」

 大斎節の間、そして今も、私は、毎朝、10時半からこのお聖堂で、「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を捧げています。ある日、祈りを終えてしばらく黙想している時に「傷も賜物だよ」と言う声を聞いたような気がしました。能力や喜びという私たちが好ましいと思うものだけでなく、傷や悲しみというあまり味わいたくないものも神様からの賜物・恵みなのだということを思いました。
 傷には癒しが与えられる。罪には赦しが与えられる。私たちの悲しみは喜びに変えられる。その癒し、赦し、喜びを、まだ見てなくても信じて歩むことができるかどうかです。復活した主イエス様による見えない恵みを信じていく中で、その傷は恵みと変えられていくのであります。
 
 皆さん、私たちは恵みの世界に生きているのです。恵みの世界を信じて私たちが歩むときに、神様の慈しみは私たちの心の中に、生活の中にあふれてきます。私たちは一人一人の生活の中に働いている、神様の恵みの力を見出し、信じていきたいと思います。
 私たちは誰一人、肉の目でイエス様を見たことはありません。でも、復活されたイエス様は「あなたがたに平和があるように」と祈り、いつも私たちと共にいてくださいます。そして、イエス様は「見ないで信じる人は、幸いである」とおっしゃっておられます。目には見えないけれど「傷ついた癒し人」である復活の主がずっと私たちと共にいてくださることを信じ、復活節に入った私たちが日々主と共に歩んでいくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。