マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 13主日 み言葉の礼拝『神が与えた信仰に生きる』

 本日は聖霊降臨後第 13主日。午前前橋、午後新町の教会で、本日も都合により、み言葉の礼拝を捧げました。聖書箇所は、ローマの信徒への手紙11:33-36 、詩編138とマタイによる福音書16:13-20。説教では、「ペトロの信仰告白」から、信仰も神から与えられた恵みであることを知り、主の教会を清め守り、信仰に生きることができるよう祈り求めました。
 「新約時代のパレスチナ」の地図やペルジーノの絵画「ペトロに天の国の鍵を授けるイエス」も活用しました。新町での説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日も「み言葉の礼拝」を捧げています。2週間前の礼拝後の夕方から発熱があり、抗原検査をしたら陽性となり、礼拝出席された方には連絡いたしましたが、ご迷惑をおかけしました。
 現在は熱は下がりましたが、いまだのどが痛く咳が出ますので、本日も聖餐式は安全のため取りやめ、「み言葉の礼拝」とさせていただきました。ご理解をお願いします。
 
 さて、今日の福音書はマタイによる福音書16:13-20、いわゆる「ペトロの信仰告白」の箇所です。
 今日の箇所について、振り返ります。
 場所は「フィリポ・カイサリア地方」です。「フィリポ・カイサリア」はガリラヤ湖から北へ約40キロメートルの場所です。こちらの「新約時代のパレスチナ」の地図をご覧下さい。

 フィリポ・カイサリアに赤字で○印をつけました。「カイサリア」は「ローマ皇帝(カエサル)の町」を意味しますが、地中海沿岸の町カイサリアと区別するために「フィリポ・カイサリア」と呼ばれていました。フィリポはヘロデ大王の息子からとられています。ここはイスラエルの北の果てであり、異教の神々の神殿がありました。そういう異教徒たちの住む偶像礼拝の地方で、イエス様は「人々は人の子を何者だと言っているか」と尋ねられたのです。弟子たちは口々に、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。洗礼者ヨハネもエリヤもエレミヤも偉大な預言者ですが、人間であることには変わりません。人々はイエス様もそのような存在と考えていたと思われます。そこでイエス様は、今度は弟子たちに向かってお聞きになりました。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」と。
 すると、ペトロが、口を開いて答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。「メシア」は、ギリシャ語原文では「クリストス(=キリスト)」です。本来の意味は「油注がれた者」でしたが、新約聖書では神が決定的に遣わされる救い主を意味するようになりました。そしてそこには、「生ける神の子です」がつけ加えられています。今生きて働き、恵みの御業を行っておられる、その生ける神が遣わされたあなたこそメシア(救い主)であると、ペトロは公に表明したのでした。
 そのペトロの信仰告白に対するイエス様の答えは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。」ということでした。「バルヨナ」はアラム語で「ヨナの子」の意味です。シモンはペトロの実名です。「ヨナの子シモンよ」とイエス様は信仰告白をしたペトロに、親の名や実名を使い親しく語りかけ「あなたは幸いだ。」とおっしゃたのです。そして「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」と言われました。ペトロのこの信仰告白は、人間が考えてできることではありません。それは神様が与えて下さるものです。その信仰を神から与えられて、それを告白することができる者は本当に幸いだ、とイエス様は言っておられるのです。
 さらにイエス様はおっしゃいます。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。」と。イエス様は、「あなたはペトロ」と言われました。「ペトロ」というのは、イエス様がつけたあだ名でして、アラム語の「ケファ」(「岩」の意味)をギリシャ語に訳したものです。続いて、「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。」と、イエス様はおっしゃいます。ここの「岩」がギリシャ語では「ペトラ」でこれは女性名詞で、この男性形が「ペトロ(ス)」です。
 イエス様は、ペトロのように、「イエス様はメシアである」と告白する人々の上に、私の教会を建てると言われたのであります。そして、イエス様を救い主と信仰告白する教会は陰府の門(力)にも打ち勝つと言っています。陰府とは死者がとどまるところです。死者の領域にも神の愛、神の支配は届くのであります。
 イエス様はペトロに「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」と話しました。この箇所を表した絵画があります、バチカンシスティーナ礼拝堂にあるペルジーノ作のフレスコ画「ペトロに天の国の鍵を授けるイエス」です。

 ペルジーノはルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家で、ラファエロの先生です。「ペトロに天の国の鍵を授けるイエス」は教皇シクストゥス4世の依頼で1482年に制作されました。
 イエス様はペトロに天の国(=神の国)の鍵を授けるとありますが、鍵の授与は、ここで実際に行為として描写されているわけではなく、あくまで、イエス様自身の意志・意向の表現です。ですから、この絵画も、実際の授与ではなく、イエス様の思いを具象化したものと言えます。
 ここの聖書箇所の「鍵」はギリシャ語原文では「クレイダス」で「クレイス(鍵)」の複数形で、英語の聖書ではkeysでした。ペルジーノの絵画でも2つの鍵が描かれ、イエス様がペトロに手渡しているのは金の鍵、これは天国の門を象徴し、もう一つの銀の鍵は地獄の門を示すと言われています(指で示す)。別の説では、2つの鍵は一方がユダヤ人のため、もう一方は異邦人のためという解釈もあるようです。
 これらのことを弟子たちに語った後、イエス様は「自分がメシアであることを誰にも話さないように」と弟子たちに命じられました。
 こういう箇所でした。

 本日の箇所を通して、イエス様が私たちに伝えていること、そして、求めておられることは何でしょうか?
 それには先ほどお読みしました本日の使徒書、ローマの信徒への手紙11:33-36が関係していると考えます。33節にこうあります。
『ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。』
 36節はこうです。
『すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。』
 ここでは、使徒パウロが「神の富と知恵と知識」の深さに対する、また、神の裁きと神の道の究めがたさに対する驚嘆を述べています。そして、すべての原因であり(神から出て)、すべてを造り(神によって保たれ)、すべてをそこへと導く(神に向かって)神の絶対的な支配を高らかに謳い上げています。そして神の偉大さを賛美し、その栄光が永遠に続くよう祈っています。
 私たちは自分の力で富を得、知恵を持ち生き方を決定しているように思いがちですが、実は、すべてのことは神の力によって生まれ、保たれ導かれているのであります。

 今日の福音書でペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をして、イエス様は「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。」とおっしゃっています。
 私たちは信仰を自分が求め得たと考えがちですが、実はそれも天の父なる神様から与えられたものなのであります。
 今日の箇所でイエス様が私たちに伝えていること、それは、すべてのことは神の力によって生まれ導かれており、イエス様を「生ける神の子キリスト」と告白する信仰も神様から与えられ、そう告白する人々の上にイエス様が教会を建てたということではないでしょうか?
 そして、私たちに求めておられることは「天におられる私の父があなたに現した」というイエス様の言葉を心に留め、神様から与えられた信仰に生きることではないでしょうか?

 冒頭、私は現在もコロナの後遺症がある話をしましたが、二週間前の13日(日)の夕方から三昼夜にわたり高熱にうなされました。特に深夜になると熱が上がり(13日は40.1度、14日は39.6度、15日は38.7度)。16日(水)にやっと37度台になり、医者に行くことができました。
 13日の深夜、不思議な体験をしました。熱が40時を越したと思われる頃、10歳の時に死別した母がそばにいるような気がしたのです。顔はよく分からないのですが、シャツをめくりお腹を見せました。そこには魚を食べた後の骨のような手術の跡がくっきりとありました。そして高熱でありますが、淡い光に包まれて法悦というか、苦しみというよりも不思議な喜びに満たされたような感覚がありました。熱が下がるにつれて母の姿は見えなくなりましたが、死者の領域にも神の愛、神の支配は届くということを思いました。
 
 皆さん、私たちの富も知恵も生き方も、すべてのことは神の力によって生まれ、保たれ導かれています。イエス様を「生ける神の子キリスト」と告白する信仰も神様から与えられたのです。まさに、信仰は神の恵みであります。
 また、教会はイエス様によって「主イエスをメシア、生ける神の子と信じる信仰」の上に建てられました。イエス様はそこに天の国の鍵も授けられました。神の支配は死者の領域にも及んでいます。絶えることのない助けをもって主の教会を清め守ってくださるよう、そして生涯主の言葉を心に留め、神様から与えられた信仰に生きることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

   父と子と聖霊の御名によって。アーメン