マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第11主日 み言葉の礼拝『共にいて救う神を見つめる』

 本日は聖霊降臨後第11主日。新町の教会で、都合により、み言葉の礼拝を捧げました。聖書箇所は、ヨナ書2:2-10 、詩編29とマタイによる福音書14:22-33。説教では、様々な困難なときも神が共にいて私たちの声に応えて救ってくださることを知り、主イエス様を一心に見つめ神に信頼して、毎日を過ごすよう祈り求めました。
 ティントレットの絵画「ガリラヤ湖のキリスト」も活用しました。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は8月13日、聖霊降臨後第11主日です。前橋の教会では8月5日に逝去者記念の式(前橋空襲慰霊)が行われました。新町は空襲はなかったようですが、高崎と伊勢崎、そして熊谷は昭和20年8月14日に空襲がありました。終戦の直前になされた無差別爆撃でした。また、今日から16日まではお盆に当たります。8月は戦争と平和、死と命について考える月でもあります。

 さて、本日の福音書は、マタイによる福音書14章22節以下の「イエス様が、湖の上を歩かれた」という奇跡の箇所です。旧約聖書はヨナ書2:2-10で、苦難の中からヨナの叫びに主が応え助けるという文が繰り返されます。10節の最後のヨナの「救いは主にこそある」の言葉は、本日の福音書の最後の33節「まことに、あなたは神の子です」という弟子たちの告白に対応しています。

 今日の箇所を振り返ります。    
 5000人以上の人々に食料を与えた奇跡の後、イエス様は弟子たちに、舟に乗って、先に向こう岸へ行くように命じました。そして、御自分はそこに残っていた群衆を解散させ、一人で近くの山に登り、夕方になってもそこで静かに祈っておられました。
 一方、弟子たちが乗った舟は、岸から漕ぎ出して、何スタディオン、1スタディオンは約185メートルですから、何百メートルか離れたところに来ています。ところが、その頃から逆風が吹きはじめ、なかなか前に進むことができません。夜が明けるころ、イエス様が、湖の上を歩いて弟子たちのところに近づいて来られました。弟子たちは恐れ、おびえ、「幽霊だ」と叫び出しました。イエス様は、彼らのすぐ近くまで来て、弟子たちに話しかけられました。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」
 イエス様と知って、ペトロが言いました。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください。」と。イエス様は、「来なさい」と言われました。ペトロは、舟から降りて、水の上を歩き、イエス様の方へ進んで行きました。しかし、辺りを見渡すと、強い風が吹いています。すると、急に不安になり、怖くなりました。と、同時に、沈みかけました。ペトロは、思わず、「主よ、助けてください」と叫びました。イエス様は、すぐに手を伸ばして、ペトロを捕(つか)まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。
 そして、イエス様とペトロが、舟に乗り込みますと、風は静まり、波も静かになりました。舟の中にいて、その様子を見ていた弟子たちは、「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエス様を拝みました。
 このような箇所でした。

 この箇所を表した絵画があります。16世紀、イタリアのルネサンス期の画家、ティントレットの「ガリラヤ湖のキリスト」です。

この絵では、画面の左前景にイエス様を大きく配し、対角線上に湖上の舟を小さく描いています。これは遠近感を示すとともに、イエス様の大きな姿は神の偉大な力を象徴し、小さな舟は人間の非力さを象徴しています。イエス様は弟子たちを見つめ「来なさい」と命じ、ペトロは恐る恐る足を踏み出しています。別の弟子は水面に手を入れ確かめています。ティントレットは緻密な画面構成と技法で奇跡の瞬間を劇的に表現しています。

 この箇所で注目したのは、イエス様が恐怖のどん底にいる弟子たちに向かって言った「安心しなさい。私だ。恐れることはない」という言葉です。この「私だ」は、ギリシア語原文では「エゴー・エイミ」であり、英語の聖書では「I am」となっていました。「エゴー・エイミ」は「私がいる」とも訳すことができ、「私がいる」は、「私はあなたと共にいる」という意味でもあります。なお、「エゴー・エイミ」は、旧約聖書では神様が御自身を表すときに用いられた表現(「私はいる」出エジプト記3:14)です。
 そして、この言葉の後に、ペトロはイエス様のもとに行くことを願い、イエス様が「来なさい」と言うと、ペトロは水の上を歩くことができたのです。その時の、ペトロはどんな状況だったでしょうか? おそらくペトロはまっすぐにイエス様を見つめて歩いていたのではないでしょうか? イエス様を見つめていたからこそ、水の上を歩くことができたのです。しかし、風を見て怖くなり沈みかけました。イエス様を見つめず、周りを気にするようになると恐ろしくなり沈みかけるのです。そして、ペトロは「主よ、助けてください」と叫びました。・・・

 本日の福音書を通して、神様が私たちに伝えようとしていることはどんなことでしょうか?
 そのことでは本日の旧約聖書のヨナ書が参考になります。ヨナは王国分裂時代の北イスラエル王国に現れた紀元前750年頃の預言者です。ヨナ書は童話「ピノキオ」にも影響を与えた、ヨナが大きな魚に飲み込まれた物語として知られています。神様からニネベに行くように言われたヨナは、そこが異教徒の地であることからそれを拒み、港から船に乗り込みましたが、嵐に遭いそれを静めるために海に放り出され大きな魚に飲み込まれます。本日の箇所では、ヨナがその大きな魚の中で三日三晩過ごし、そこで祈った言葉が記されています。 
 2~3節にこうあります。
「ヨナは魚の腹の中から自らの神である主に祈って、言った。/苦難の中から私が主に呼びかけると/主は答えてくださった。/陰府の底から主に叫ぶと/私の声を聞いてくださった。」
 ここでは苦難の中で主に助けを求めると応えてくださる神様が示されています。
 また、7節にこうあります。
「私は山々の基、地の底に沈み/地の扉に長く閉じ込められた。/しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。」
 神様はヨナの命を救われました。さらに、10節にこうあります。
「だが、私は感謝の声を上げ/あなたにいけにえを献げ、誓いを果たそう。/救いは主にこそある。」
 ここではヨナが感謝し、使命を果たすことを誓い、最後に「救いは、主にこそある。」と言って「神様によって救われたこと」を明言しています。
 本日のヨナ書では、主に祈り、助けを求めると神様は応えてくださり、救ってくださることが示されています。

 本日の福音書でも「主よ、助けてください」と叫んだペトロに対して、イエス様はすぐに手を伸ばして捕まえ救ってくださいました。ちなみに、ここに出てくる「舟」は教会を表し、そして荒れ狂う「湖(海)」は教会に対して戦いを臨む力を表しているとも考えられてきました。「湖(海)」の上を歩いて「舟」に近づくイエス様は神様がいつも共にいてくださることを示しています。大風・大波という困難の中にも神様が共におられるのです。
 私たちの人生もこの「湖(海)」のようです。大風・大波が吹く人生の様々な困難にぶつかりくじけそうになるとき、イエス様はそこに道を開き、私たちに近づいてくださいます。私たちはイエス様を見つめて歩み出しますが、時に周りに目が行き、困難に陥りそうになります。そのような時は「主よ、助けてください」と叫ぶことが肝心です。そうすれば、主は御手を伸ばして私たちを捕まえてくださいます。イエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と問います。しかし、それは拒絶ではありません。イエス様は信仰が薄くても疑う者でも見放さず救いの手を伸ばされます。イエス様が舟に乗り込むと風は静まります。結果として、舟に乗り込んでいた人たちはイエス様を神の子として礼拝したのです。
 本日の福音書を通して神様が私たちに伝えようとしていること、それは、どのようなときも神様は私たちと共にいて、祈り助けを求めると神様は応えて救ってくださる、ということではないでしょうか?

 先ほど福音書朗読の前に歌った聖歌542「心の雄琴に」の3節をご覧ください。こうあります。
『3. 救いの主イエスを ひたすら仰げば 心に湛(たと)うるは あまつ み恵み
   平和よ くしき平和よ 愛なる み神の くしき平和よ』
 救い主であるイエス様を一心に見つめれば、天の恵みがあふれてくるのです。それこそが真の平和・平安であり、愛なる神様が与えてくださる、人の知恵では計り知れない妙なる平和である、とうたっています。この神様を信頼し、一心にイエス様を見つめて参りたいと思います。

 私たちは、日常生活で様々な問題に直面します。家庭や学校や職場での問題、人間関係、健康上の不安、お金の問題、自然災害、感染症の蔓延、社会問題等々です。多くの問題が押し寄せ、何とか乗り切ろうと一生懸命漕いでいますが、こぎ悩んでいます。イエス様を見つめて歩むときはいいのですが、私たちは、ややもすれば自分の力で何とか乗り切ろうとします。しかし、それでは沈みそうになってしまいます。そんなときは「主よ、助けてください」と叫びましょう。様々な困難なときも神様は私たちと共におられ、その声に応えて救ってくださるのです。
「安心しなさい。私が共にいる。だから、恐れることはない」、イエス様は私たち一人一人にそう呼びかけておられます。そのイエス様を一心に見つめ、いつも主が共にいることを忘れず、神様を信頼して、毎日を過ごすことができるよう、そして、真の平和が与えられるよう、祈り求めたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン