マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第3主日聖餐式 『悔い改め、神に立ち帰る』

 本日は大斎節第3主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課
出エジプト記 3:1-15とルカによる福音書13:1-9。
 説教では、 「悔い改め(メタノイア)」の意味を知り、試練の時に共にいてくださる神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う人生を歩むよう祈りました。
 シャガール「燃える柴の前のモーセ」の絵を使って「悔い改め」のできる原動力についても語りました。

    『悔い改め、神に立ち帰る』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は大斎節第3主日です。大斎節は灰の水曜日(今年は3月2日)から始まりましたので、そろそろ大斎節の半分が過ぎようとしています。
 
 本日、与えられた聖書のみ言葉から、神様のみ心を尋ねて参ります。
 本日の福音書箇所の最初のところに「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とありますが、これは比ゆ的な表現で、実際には、「あるガリラヤ人たちが神殿でいけにえを献げようとしていたところをローマ軍によって殺害された」、という事件のことを表しているようです。
 次の「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」も実際の出来事を指していると考えられます。古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。どちらも当時のユダヤ人にとってはよく知られた出来事だったと考えられます。
 イエス様はこの事件と事故についてそれぞれ、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。」また、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのどの人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。」と尋ねておられます。
 ここでイエス様が語られた言葉の背景には、当時の人々の考え方が大きく影響していました。それは、不幸なことと罪には、因果関係があるという考え方でした。不幸な出来事はすべて罪の結果であり、不幸が起こったのは、過去に何かの罪を起こした結果であり、それゆえに災難にあったと理解されていました。しかし、イエス様は「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言って、罪と不幸や災難を直接結び付ける、そのような考え方を否定し、私たち一人一人が悔い改めなければならないと言われたのです。

 そして、イエス様は、なかなか自分を変えようとしない頑なな人々に対して「実がならないいちじく木」のたとえを話されました。このような話です。
 「ある人がぶどう園に、いちじくの木を植えておき、実を探しに来たのですが、一つも見つかりません。そこで、園丁に言いました。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか。』と。すると園丁は答えました。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」
 イエス様は、このように、たとえ話で話されました。イエス様は、何をどのように、たとえておられるのでしょうか?
 このような解釈があります。
 『「主人」とは神様で、「ぶどう園」とはイスラエルであり、「いちじくの木」とは、ユダヤ人を指している。「園丁」とは、イエス様のことであり、「3年間」とは、イエス様が人々の中でされた宣教活動の期間である』と。
 神様は、イスラエルを選び、そこにいちじくの木、すなわちユダヤ人を置かれました。神様は、そこで、ユダヤ人の一人一人が実を実らせることを期待しておられたのです。ところが、そのいちじくの木は、神様の期待に応えようとせず、一つも実を実らせません。そこで、園丁であるイエス様を送って、期待に応えないユダヤ人を打ち倒せと命じました。するとイエス様は、「悔い改めるよう働きかけをしますので、しばらく待って下さい」と言って猶予を願い、神様に取りなしをした、というのです。

 本日の聖書のキーワードは「悔い改め」だと思います。少し、この言葉について考えたいと思います。
 悔い改めはギリシャ語では「メタノイア」と言います。このギリシア語は「考えを変える」ことを表し、「回心(心を回す)」とも訳される言葉です。 
 ですから、「悔い改め(メタノイア)」とは、「悪いことをしました。もうしません」ということではなく、回心、つまり「神の方に向きを変えること」、「神に立ち帰ること」を表します。そしてそれは、私たちに具体的な行動を求めます。
 
 本日の旧約聖書出エジプト記3章では、エジプトで奴隷となっているイスラエルの人々を救い出すよう神様からモーセが命じられ、戸惑い躊躇する姿が記されています。いわゆる「燃える柴の前のモーセ」です。私が思い浮かべるのはシャガールのこの絵です。

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 シャガールはこの絵の中で複数の聖書のモティーフを描いています。この絵では、向かって右側にいるひざまずくモーセに真ん中の燃える柴とその上にいる御使いが使命を告げています。モーセの頭上には伝統的にモーセの属性とされている2本の「光の角」が描かれています。そして、左では黄色い顔(黄色は使命に伴うしるし)になったモーセイスラエルの人々を引き連れて紅海を渡っています。
 モーセがエジプトで暮らしたのは40年で、次の40年は逃亡して羊飼いとして身を隠すような生き方をしました。40年間、彼は本来いるべきところから逃げていたと言えるかもしれません。モーセが本来の道に立ちかえったのは今日の旧約聖書の箇所であり、この絵のように、「燃える柴」に、つまり神様そのものに出会って、モーセは生き方の修正をせざるをえなくなりました。「私はいる、というものである」、以前の訳では「わたしはある。わたしはあるという者だ」という神様に出会って、彼はエジプトに戻って、イスラエルの民を救う使命を新たに始めた、それはつまり、本来の場所に復帰したと言えると思います。
 モーセを見た時に私たちの回心というのは一体どういうことなのか、と思います。私たちも神様に出会って、自分が本来向かうべき場所に立ち帰り、「主がなせ」という使命を果たしていく。それこそが本当の回心ではないでしょうか?

 悔い改め、回心のできる原動力は何でしょうか?
「私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」(11節)と戸惑い躊躇するモーセに、神様はこう言っています。12節です。
「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。」と。
 神様はモーセに「私が命じることはお前一人でするのではない。私がお前と共にいる。だから遣わすのだ」とおっしゃっているのです。これはモーセだけでなく、私たち一人一人にも神様がおっしゃっている言葉です。

 皆さん、私たちは、困難や試練の時に共にいてくださる神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う人生を歩んで参りたいと思います。
 大斎節も半ばとなりました。大斎節は、自分自身の信仰のあり方を吟味する時です。心から悔い改め、心の転換を図り、祈りと克己に努める時でもあります。
 試練の時に共にいてくださる神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う生活をし、復活の喜びの日を迎えることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。