マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第6主日 聖餐式『イエス様の軛を負い主に学ぶ』

 本日は聖霊降臨後第6主日。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、ゼカリヤ書9:9-12、詩編145:14-19とマタイによる福音書11:25-30。説教では、重荷を負う者を招くイエス様の真意を知り、柔和で心のへりくだった主イエス様を信頼して、イエス様の軛を負い、主に学び、み心にかなう生き方ができるよう祈り求めました。
 軛につながれた牛を使って畑を耕す、当時の農作業の絵等も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第6主日です。今年の復活日は4月9日でしたから、イースターからちょうど3ヶ月が経ったことになります。いよいよ夏も本番という気がします。
 今、お読みしたマタイによる福音書11:25-30には、多くの人から愛され、多くの人に生きる力を与えたみ言葉が含まれています。それは28節の『すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。』です。今回の新しい訳でこうなりましたが、この前の新共同訳では「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」でした。
 こみ言葉は教会の門などにもよく掲示してあり、一昨日、前橋の七夕祭りで中央通りを通ったら、弁天通に入るところに救世軍の教会(前橋小隊)があり、そこの玄関の看板にこのみ言葉が大きく掲げてありました。この聖句に目が行きがちですが、本日の説教では、与えられた聖書箇所全体を丁寧に読み、神様、イエス様の思いを受け止めたいと思います。

 本日の福音書は、マタイによる福音書 11章25-30節で、大きく2つに分かれています。前半は25節から27節、そして後半は28節から30節です。「天地の主である父よ」から始まる前半は、「父」という語が5回登場する「父への祈り」で、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」と始まる後半は「私」という語が6回、「あなたがた」という語が5回登場する「イエス様からの私たちへのメッセージ」です。29節の「私は柔和で心のへりくだった者」であるイエス様と、本日の旧約聖書ゼカリヤ書9:9「へりくだって、ろばに乗って来る」王が対応しています。

 福音書を中心に思い巡らします。
 マタイ福音書11章では洗礼者ヨハネやイエス様を受け入れなかった人々のことが語られています。当時、イエス様を受け入れた人々と受け入れなかった人々がいたのです。本日の箇所は、そのような状況の中でのイエス様の祈りと、すべての人々に対する招きとして読むことができます。
 この箇所で、イエス様は、父である神様との対話の中で、神様に受け入れられる人々の条件を、改めて確認しておられます。その条件とは、何でしょうか?  ここでは三つあげています。

 第一の条件は、「幼子たちのような者になる」ということです。25節の後半に「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。」とあります。
 「これらのこと」については二つの解釈が可能です。それは、①イエス様が神様を現す者であるということ、②天の国の秘密です。26―27節に、イエス様こそが神様の啓示者であるということが述べられていることを考えると、①のほうがよいかもしれません。イエス様が神様を現す者であることを神様が隠した「知恵ある者や賢い者」とは、文脈から見ると、イエス様を認めることのできないユダヤ人、特にファリサイ派の人々を指しています。他方、イエス様が神様の啓示者であることを神様が現した「幼子たち」とは、比喩的表現であり、27節後半から見て、イエス様が神様を「現すことを望む者」のことであり、幼子のように信頼をもって神様に近づく人たちのことだと考えられます。

 第二の条件について、イエス様は言われます。27節です。
 「すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。」
 それは、神様とイエス様の関係を、受け入れ、信じていることです。神様とイエス様の関係は、父と子の関係です。本当に父を知っている、父のみ心を知っているのは、子です。そして、本当に子を知っているのは、父です。それは、父なる神様を人に知らせることができるのはイエス様だけだ、ということです。そのことを理解し、「あなたはそれを信じますか」と問われています。

 第三の条件は、イエス様に近づこうとするということです。28節にこうあります。
 「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
 イエス様が語られた当時の「重荷を負って苦労している者」とは、私たちが思い浮かべる、生活上や人間関係の問題で苦しんでいる、そのような状態の人だけを言っているのではありません。
 当時のイスラエルでは、律法を守ることが厳しく教えられ、旧約聖書にある戒めだけでなく、それ以外に無数にある口伝律法、毎日の生活の習慣にいたるまで、これを守ることが厳格に義務づけられ、祭司たちや律法学者たち、ファリサイ派の人たちが、住民に向かって、これを強要し、権力を振るっていました。
 それを守ることが、熱心に信仰生活を送ることだと教えられていました。一般のユダヤ人には、何よりも律法主義、戒めを厳格に守らされることが「重荷」でした。日々、そのことのために、苦労していました。そのような人々に向かって、イエス様は、「私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と言われたのです。これは当時の人々にも私たちにとっても大きな慰めの言葉です。
 
 さらに、先ほどの聖句の後に、イエス様のところに来て休ませていただいたらどうなるかが記されています。29・30節です。
「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」 
 イエス様は自分を「柔和で心のへりくだった者」であるとおっしゃいます。これはこれまでの旧約聖書で多く示された厳しく罰する神様とは違う新たな神様です。本日の旧約聖書のゼカリヤ書は旧約聖書の最後から2番目の書物で、かなり新約聖書に近くなっています。その9章9節の後半でイエス様についてこう預言しています。
「あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る 雌ろばの子、子ろばに乗って。」
 イエス様が馬でなくろばに乗ってくるという、柔和でへりくだった姿でエルサレムに入城されることが預言されています。
 そのような「柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。」とイエス様はおっしゃっています。軛とは畑を耕すために牛二頭の首にかける木材のことです。頸引きが縮まって「くびき」というようになりました。
 この絵をご覧ください。

  これは当時の農作業、特に耕作の様子を表した絵です。軛が二頭の牛に付いています。この光景は、当時のイスラエルでは日常的に垣間見られ、分かりやすい例えだったと思います。

 イエス様はこう言っています。「私の軛を負い、私に学びなさい。」と。軛は二頭の首にかけられています。この場合の二頭とはどういうことかと言えば、一頭はイエス様で、もう一頭は自分だということです。イエス様と二人で軛を合わせていくには、歩調が合わなければうまくいきません。イエス様があっちに行こうとしているのに、自分がこっちへ行こうとしたらだめだし、イエス様がゆっくりしようと思っているのに早くしようと思ったらだめです。歩調を合わさない限り、軛は合いません。そして、何をするかと言ったら、土を耕すということです。耕さなければならないものがあるのです。それは私たちの固い心かもしれません。それをイエス様と軛を合わせてやらなければ、土をうまく掘り起こせないのです。この土とは日本の社会や家庭などかもしれません。そこをイエス様と共に耕していく、すると安らぎが与えられる。それをするように、私たちは呼ばれているのだと思います。
 さらに、端的に言えば、「私の軛を負い、私に学びなさい」とは「イエス様と一緒に軛を負い、イエス様のリードに従って歩みなさい」ということです。そうすれば「魂に安らぎが得られる。」というのです。なぜなら「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いから」です。イエス様は「私がうまくリードする、あなたが負いきれない重い荷物は載せないから」というのです。

 ところで、キリスト教の聖職者は、首にカラーを着けます。カトリックや一部のプロテスタントの方も着けますが、聖公会が一番着用率が高いようです。私は今日はラウンド・カラーを付けています。

   これは別名、ドッグ・カラーとも言います。最近はミニ・カラー(タブ・カラー)という簡素な物を付けることが多くなりました。このカラーは、何のために着けているのかご存じでしょうか?
 諸説ありますが、一つには神様につながれていることをいつも自覚するということです。そして、周りの人もそれを着けている人は「神様に仕え福音を伝えるために生きている人だ」と見ます。日本ではあまりそういう目で見る人は多くありませんが、カラーを着けて街を歩いていると、時々恭しく挨拶したりする外国人の方もいます。ですから、聖職カラーは神様につながれている軛の象徴と言えます。
 しかし、重荷を負って苦労しイエス様のもとに来た私たちもまた、実はイエス様のもとで休ませてもらった後、イエス様の軛を負わされているのです。それは、目には見えない軛です。カラーのように、人に気づかれるものではありません。イエス様から与えられる軛は負いやすく、その荷は軽いのです。それはこの軛がイエス様によって一人一人に応じて作られ、そしてその荷物はイエス様が共に担ってくださるからです。

 皆さん、私たちは皆、何らかの重荷を負っている者です。その私たちにイエス様は「私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」とおっしゃっておられます。そしてイエス様が一緒に重荷を負ってくださり、イエス様と二人で軛につながれ、イエス様のリードで人生を歩むとき、魂に安らぎが得られるのです。柔和で心のへりくだった主イエス様を幼子のような気持ちで一筋に信頼して、日々主に学び、み心にかなう生き方ができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン