マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第4主日聖餐式 『山上における「八つの幸い」

 本日は顕現後第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ミカ書6:1-8とマタイによる福音書5:1-12。神は貧しいとき、悲しむとき、苦しむときなど、どのような状況にあっても私たちと共にいて語りかけていることを知り、神により頼み、神の語りかけを聞くことができるよう祈り求めました。
 本日のテーマから思い浮かぶ遠藤周作の小説「沈黙」についても思い巡らしました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第4主日福音書はマタイによる福音書5:1からで、山上の説教中のいわゆる「八福の教え(八つの幸福の教え)」の箇所です。そしてそれは本日の旧約聖書のミカ書6:8の、主が求められる「公正を行い、慈しみを愛し へりくだってあなたの神と共に歩むこと」と対応しています。

 本日の聖書の箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか? また、神様は私たちに何を求めておられるのでしょうか?
 
 福音書を中心に考えます。
 今日の箇所から始まるマタイ福音書5~7章の長い説教は、以前はよく「山上の垂訓」と言われていましたが、今では「山上の説教」と呼ばれることが多いようです。「垂訓」というと何か上から訓示を垂れるニュアンスがあるからかもしれません。
 本日の箇所の中心であるマタイによる福音書5章3節~12節は、カトリックでは「真福八端(しんぷくはったん)」と呼ばれている箇所です。なぜ、「真福八端」と呼ぶかといえば、私たち人間にとって、本当の幸福を八つの短い言葉で、イエス様が教えてくださっているからです。

 ではこのイエス様の教えである八福の教え、真福八端について見て参ります。
 まずこの教えは誰に向かって語られているかを確認したいと思います。1節~2節にこうあります。
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。」
 4、5年前のイスラエル旅行で、この場所にも行きました。今はこの場所に「山上の垂訓教会」という名前の教会が建っています。

 ガリラヤ湖を望む広々とした丘に優しい風が吹いていました。
 さて、イエス様は群衆を見て「山に登られました」。そして弟子が御もとに来て教えられた、のでした。イエス様は弟子にも教えられましたが、群衆を対象に語っていたことは間違いありません。おそらくあまりに多くの群衆がイエス様の話を聞こうとして押しかけ、会堂では収まらないので、野外の丘のような場所で話したのだと思います。
 この群衆はどのような人たちでしょうか? それは本日の箇所の直前の4:24にあるように、各地から集まった「いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など」・・・あらゆる病気、苦しさのなかにある人々でした。その人々に向かって、イエス様は「幸いである」と言われたのです。このことは重要だと思います。ちなみに、こことおなじ箇所を、ルカでは「山から下りて」平らな所、平地で弟子たちを見て語られています。

 マタイに戻りますが、山の上で、イエス様があらゆる病気、苦しさのなかにある人々に語った第一声が「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)です。ルカでは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)となっていて、こちらの方がイエス様の発言の原型に近いと考えられます。天の国と神の国は同じ意味です。なお、「幸いである」と訳されたギリシャ語原文の元々の意味は「不安のない至福の状態」を言い、「大丈夫だよ」と言い換えてもいいような言葉と言えます。
 
 聖書協会共同訳聖書等、最近の日本語聖書では、「心の貧しい人々は幸いである」と訳されていますが、元々のギリシャ語の語順では、「幸いだ、心の貧しい人々」「幸いだ、悲しむ人々」「幸いだ、へりくだった人々」というように、「幸い、幸い、幸い」という呼びかけが先になっています。祝福です。 かつて読まれていた文語訳聖書が「『幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」だったことを覚えている方もおられると思います。英語の聖書では「Blessed are the poor in spirit.」です。文語や英語の方が原文にニュアンスが近いと思います。
 「心の貧しい人々は幸いである」と言われると、何か自分と無関係な言葉と思うかもしれません。けれども、これは「幸いだ、心の貧しい人々」「幸いだ、悲しむ人々」「幸いだ、へりくだった人々」と、イエス様が群衆だけでなく私たち一人一人にも「大丈夫だよ」と語られた祝福の言葉、励ましの言葉だということを踏まえたいと思います。

  「心の貧しい」については説明が必要と思います。「心が貧しい」というと日本語では「精神的貧困」というふうに感じますが、ここではそういう意味ではありません」。直訳は「霊において貧しい」で、「神の前に貧しい」という意味に受け取るのがよいと考えられます。この「貧しい」と訳された言葉(プトーコス)は、ギリシャ語辞典によると「物質的に貧しいだけでなくこの世で圧迫され失望し神の助けを必要としてこれにより頼んでいる人」とありました。自分の力ではどうにもならず神様に助けを求め神様に信頼する人です。ですから「貧しく神様により頼む人」とでも訳せるように思います。ある聖書(フランシスコ会訳)では「自分の貧しさを知る人」とありました。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、神様の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿を示そうとしていると考えられます。
 ではなぜそのような人々が幸いかというと、天の国がその人たちのものだからだ、とイエス様は教えておられます。天とは神のこと、国とは支配です。つまり、神様は「助けを求め神様に信頼する人」に特に目をかけ、そのような人々に神様の支配が及んでいるから、神様が共にいてくださるから「幸いだ」「大丈夫だ」というのです。

 イエス様に幸いであると言われた人々はどのような人々でしょうか? 3節から見ていきますと、3心の貧しい人々(既に見ました)、4悲しむ人々、5へりくだった人々、6義に飢え渇く人々、7憐れみ深い人々、8心の清い人々、9平和を造る人々、10義のために迫害された人々です。これらの人々が幸いだとイエス様はおっしゃるのです。
 なお、5節の「へりくだった人々」はこれまでの訳では「柔和な人々」と訳されていました。ここのギリシャ語原文の意味は「自分も抑圧されていながらそれにめげずに苦しむ仲間に優しくする人々」です。そういう人々は「柔和な」よりも「へりくだった」の方がふさわしいと今回の訳で判断されたのかもしれません。

 へりくだった人々や憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を造る人々が幸いであるというのは、理解できるように思います。しかし、心の貧しい人々(物質的な貧しさを含む)、悲しむ人々、義に飢え渇く人々(ルカでは飢えている人々)、義のために迫害される人々が幸いであるとは考えにくいと思います。
 しかし、イエス様はそのような人々を「幸いである」と言われました。なぜでしょうか?
 それは、悲しむ人々、飢え渇く人々、迫害される人々等、苦しむ人々と共に神様がいてくださり、神様はその人々のためにおられ、神様がその人々の悲しみを慰め、飢え(精神的なものを含む)を満たしてくださるからと言えます。

 また、3節から10節までは「心の貧しい人々は」「悲しむ人々は」と3人称で語られましたが、11節から12節では「あなたがたは幸いである」と2人称で語られます。こうあります。
「11私のために人々があなたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 これは10節の「義のために迫害された」ことの説明でもあります。
 この「あなたがた」は一般論でなく、迫害されているマタイの教会の信徒、この山上の説教を聞いている群衆や弟子たち、さらに今、御言葉を聞いている私たちにも呼びかけていると考えられます。このイエス様の言葉は私たちに向けても語られているのです。10節を直訳すれば「幸いである、義のために迫害された人々。なぜなら、天の国はその人たちのものだから」となります。つまり、神様が共にいてくださるから幸いなのです。さらに言えば、単に迫害でなく、11節冒頭にあるように「私のために」、つまりイエス様のゆえに、迫害され、悪口されるとき、幸いである、と言うのです。

 私はここで、遠藤周作の小説「沈黙」のことを思います。

 「沈黙」は江戸時代初期のキリシタン弾圧下で、舞台は主に長崎や五島列島、主人公はポルトガル人司祭ロドリーゴです。江戸幕府の禁教政策で、迫害を受け棄教を余儀なくされたキリシタンたち。熱い温泉を素肌にかけられたり、穴吊りという汚物の中に逆さに吊されたりという厳しい拷問にも「転ばなかった」(信仰を捨てなかった)人たちがいました。「沈黙」は6,7年前、アメリカ映画にもなりました。
 私はかつて、ある夏、雲仙・天草・島原地方の殉教地を訪ねたことがありますが、雲仙岳の熱湯があふれ出している拷問の場や穴吊りの現場を見てそれは恐ろしく、自分には耐えられないだろうと正直思いました。このような拷問に屈しなかった彼らは、この聖書の言葉から「あなたがたは幸いだ。天には大きな報いがある」と信じて殉教したのかもしれないと思います。小説「沈黙」の中にも「デウスのために命を捨てる者は果報者」という言葉があったように思います(正しくは「果報なる哉、今よりデウスのため死する者・・・」P.136)。
 一方、信仰を捨てた人もいます。また、踏み絵を毎年踏むが、隠れて信仰を持ち続けた「隠れキリシタン(潜伏キリシタン)」もいます。殉教した者だけに神様は共にいるのでしょうか? 
 遠藤周作はこの小説に「沈黙」という題名に託した思いについてこう語ったことがあります。『「神は沈黙しているのではなく語っている」という意味を込めての「沈黙」という題名が「神の沈黙を描いた作品」と誤読(間違った読み方)を招いている』と。
 11節で「イエス様のためにののしられ迫害され、悪口を浴びせられるとき幸いである」と言っていますが、「殉教した者、あるいは棄教しなかった者が幸いである」とは言っていないことに留意したいと思います。
 
 皆さん、本日の聖書の箇所を通して、神様が私たちに伝えようとしていることは何だと思われますか? また、神様が私たちに求めておられることは何だと思われますか?
 神様が私たちに伝えようとしていることは、神様は貧しいとき、悲しむとき、苦しむとき、飢え渇くときなど、どのような状況にあっても私たちと共にいて、語りかけていてくださること。私たちに求められていることは、日々の生活の中で、自分の貧しさを知り神様により頼み、神様の語りかけに耳を傾けることではないでしょうか?   私たちがそうできるよう、この礼拝で、また日々の祈りの中で主の導きを祈り求めたいと思います。