マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

教役者(逝去者)記念聖餐式 『伝道者として道を伝え生きる』

 本日は小山祈りの家で教役者(逝去者)記念聖餐式がありました。4年半ぶりに説教を担当しました。5月・6月の逝去者リストの中から、山村暮鳥の義父である土田三秀執事にスポットを当てて話しました。 
 中心聖句はヨハネによる福音書14章6節。先輩教役者の伝道や生き方に思いを馳せ、そこに現された神のみ業を知ることにより、教役者としての在り方を見つめ、これからの歩みの上に主の導きを祈りました。
 「北関東教区70年史」、「前橋聖マッテア教会130年の歴史年表」や山村暮鳥の生涯を記したノンフィクションを活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 私が教役者(逝去者)記念聖餐式で説教をするのは2回目です。前回は2018年11月26日、執事の時で、その際は11月・12月の逝去者リストの中で唯一お会いした「ファーザー」の愛称で知られる竹田鐵三神父にスポットを当ててお話ししました。その後しばらくしてから、コロナの感染拡大に伴い、3年近く教役者記念聖餐式が開催されませんでしたが、今年の1月25日から再開され今回が3回目となります。この機会に、2ヶ月に一度、北関東教区の亡くなられた教役者のレクイエムを行う意味について、私なりに考えてみました。それは、教区の聖職の先輩である教役者の方々の魂の平安を祈るとともに、彼らの宣教・牧会の姿や生き方に思いを馳せ、そこに現された神のみ業を知ることにより、私たちが教役者としての在り方を見つめ、これからの歩みの上に主の導きを祈ることです。このことを念頭に、説教を行いたいと思います。 

 さて、このたび5月・6月の逝去者リストを事前に送っていただき拝見しましたところ、私が実際にお会いしたことがある方は二名でした。それは太田国男執事と福井嘉彦執事です。特に福井執事とは、聖職養成神学塾の第一期生同士として親しくさせていただきました。しかしながら、今回はこの二名でなく、本日の次第の逝去教役者名簿のトップにあります前橋の教会と関係する土田三秀執事にスポットを当てて話してみたいと思います。そして、私たちが学ぶ点やそこに示された神のみ業等について思いを馳せたいと思います。

 土田三秀は詩人山村暮鳥の名親であり、義父でもあり、前橋の教会に勤務しているときに執事に按手されました。「北関東教区70年史」によると、土田三秀の勤務教会は前橋・土浦・石岡・水戸、兼務した教会は玉村・高崎でした。

 今回、土田三秀執事については、「北関東教区70年史」のほかに、「前橋聖マッテア教会130年の歴史年表」と

山村暮鳥の生涯を記したノンフィクション、小坂井澄(すみ)著「いのちの木かなし-愛と苦悩の詩人・山村暮鳥-」を参考にしました。

 これらの参考図書から、土田三秀の生涯を時系列的に見ていきたいと思います。

 土田三秀は慶応元年(1865年)生まれ。代々続いた犬山藩医師の一人息子でしたが、若い頃、埼玉県松山の瀬戸物屋に奉公したのを振り出しに、人生の辛酸(しんさん)をなめて、ついにキリスト教信仰に救いを見いだしたようです。東松山の講義所に通い、「北関東教区70年史(P.221)」に「明治20年(1887年)3月、土田三秀を含む5名が東京聖パウロ教会でファイソン司祭から受洗しました。これらの人たちは、東松山伝道の初穂です。」とあります。当時のキリスト教への迫害の様子とそれに対する求道者等の篤い信仰について、70年史にはこう記されています。
明治19年6月のある主日の夜、東松山の講義所で前年から松山町伝道に着手した飯田栄次郎師による説教会が開かれた。求道者清水奥太郎、土田三秀の諸氏のほか10数名がテーブルの左右に座した。約1時間半の説教会の間、間断なく石つぶてが飛んできた。9時半の閉会後も群衆が押し寄せ石つぶてが一層激しくなった。ついに、飯田師は暴徒二人によって戸外に引き出されたが、両肌脱いだ一人の勇士が「われこそは清水奥太郎なり、相手にならん」と絶叫したので、暴徒は肝を奪われ、潮のように退散し、11時半に収まった。その後、土田三秀を含む10数名と感謝祈祷会を開き午前2時頃閉会した。翌朝、三秀はじめ、2,3人の求道者が室内を掃除したところ、瓦・つぶて・木片・砂利を掃き集めたら箕(み)に十数杯あったという。』(P.289)
 このような状況の中、翌年、土田三秀は洗礼を受けたのです。相当な決意があったと思われます。
  その後、土田三秀は「和歌山、大阪、東京と三つの神学校へ行って卒業し、前橋に来た」と一人娘の富士(後の山村暮鳥夫人)が北関東教区時報(昭和50年8月24日発行)の中で述べています。
 土田三秀伝道師の前橋来任は明治31年(1898年)7月です。妻、順(しゅん)と一人娘の富士(3歳)を連れていました。家庭の様子については「いのちの木かなし(P.13)」にこうあります。
『親娘3人の土田家は三秀が絶対君主で、娘の訓育から家事の隅々にいたるまで、彼の思うまま言うままにはこばれていた。順は頑固一徹の夫に、ただ黙々と、しかも心から甘んじて従った。伝道者として、信仰者として、夫をこの上なく尊敬していたからである。』
 三秀はすぐに熱心に伝道に励んだようで、明治33年3月30日発行の『基督教週報』にはこうあります。
 『土田三秀氏赴任以来日尚ほ浅しといえども、熱心なる伝道によりて会員の信仰は頓(とみ)に興(おこ)り、受洗者の如きも本日九日男五人女一人あり。』
 そして、この年、明治33年(1900年)4月15日の復活日に前橋の教会はマキム監督から聖別され、チャペル師の選により前橋聖マッテア教会と名付けられました。その日には、男8人・女5人の信徒按手式(堅信式)もあったようです。
 土田三秀は前橋のほかに玉村も兼任していました。明治33年7月20日発行の『基督教週報』にはこうあります。
『伝道主任土田三秀氏、毎日曜午後より一泊にて三里を距(へだた)る玉村に出張伝道せらる。此所には土着の信者八人家族あり、二十一人教会新築の計画あり。』
 三秀は主日の午後、前橋の礼拝を終えてから約12キロメートル歩いて、一泊かけて玉村まで伝道していたのです。
「いのちの木かなし(P.18)」にはこうあります。
『三秀はこのころの地方の牧師や伝道師がほとんどそうであるように、着物と袴の上に白いサープリス(式服)を着ていた。痩せ細った禁欲的な顔が黒々と日焼けしているのは、農村の信者宅をまめに訪問して歩いているためである。』
 伝道者として、三秀が信徒訪問を大切にしていたことが分かります。

 明治34年(1901年)1月、マッテア教会の夜学英語会が開設されます。すると山村暮鳥(本名は木暮八九十)は、すぐに通い始めました。牧師はチャペル長老。その下には土田三秀伝道師、ほかに英国人婦人宣教師二人、日本人の婦人伝道師が一人いました。八九十は翌、明治35年(1902年)6月6日にマッテア教会でチャペル長老から洗礼を受けました。名親は土田三秀と高崎の教会の宣教師、ミスウォールでした。
 同年6月11日、土田三秀は東京聖三一教会で執事按手を受領しました。そして、翌、明治36年1903年)9月1日に前橋から土浦に転任となりました。

 暮鳥(八九十)を娘婿にするに至った三秀の思いについては、「いのちの木かなし(P.18)」にこうあります。
『男の子に恵まれず、また、自分自身、学歴の不足から、40歳近くになってやっと執事の職位に昇進したものの、とうてい長老にまでなることは望むべくもない三秀はこの八九十のひとみのまばゆいきらめきに賭けたのである。(中略) 文学や芸術に才気あふれた青年八九十が、次第に自分と世界を異にしていくのではないかという苛立ちが耐えがたかった。しかし、三秀は結局、もう一度あのひとみのきらめきに賭けて、結婚を認める前に彼に「どんなことがあっても牧師の道を貫くことを約束してくれ」と告げ、了解を得た。』
 三秀の聖職に対する特別な思い入れと娘婿となる八九十への期待が伝わってきます。八九十と富士の結婚式は、大正2年(1913年)6月17日に水戸ステパノ教会でチャペル長老により挙げられました。八九十の義父三秀への思いについては「いのちの木かなし(P.52)」にこうあります。
『恩師土田三秀の伝道師としての生活、文字通り埋もれ切り、自分を捨て、他者に仕え尽くす生き方を、八九十は感動と畏敬を持って目の当たりにし、身近に接するうちに、それを自分のものとして望むに至った。』

 その後、土田三秀は水戸で勤務している時に脳溢血で倒れ、築地の聖路加病院に入院しましたが、回復し、そのまま聖路加病院礼拝堂付きとして勤務しました。訪問好きの三秀は、信者や、信仰に多少なりとも関心を持つ入院患者のベッドを丹念に歩き回り、話し相手になって喜ばれたようです。
  そうこうしているうちに、大正9年(1920年)の夏、妻、順(しゅん)が発病、精神障害でした。まもなくマキム監督の配慮で水戸へ転任になり、三秀は夜も眠らずに看病し、二年ほどで全快しましたが、それからまもなく、大正12年(1923年)に、妻、順(しゅん)は57歳で逝去しました。
 翌、大正13年(1924年)12月7日に娘婿、土田八九十(山村暮鳥)は肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で逝去しました。
 妻と娘婿に先立たれた三秀ですが、その後も伝道に専念し、昭和11年(1936年)5月1日に逝去しました。71歳でした。
「いのちの木かなし(P.25)」にこうあります。
『三秀は、ひたすら人のために尽くすことしか念頭になかった。上役や外国人宣教師にたいしても愛想がなく、教会の中でも「世渡り」は下手だったが、自分が面倒を見た信者からは、絶対的な信頼を寄せられていた。』
 今回、私が土田三秀の生涯から特に学んだり感じたりしたことは、伝道者として、信者や求道者等をまめに訪問し相談に乗ったこと、家族や自分に厳しく他者に仕える生き方を貫いたことなどです。

 土田三秀が伝道者として伝えた道とはどのようなものでしょうか?
 それは本日の福音書の終わり、ヨハネによる福音書14章6節の「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」のみ言葉で示されている道だと思います。この前半のみ言葉は、本田哲朗神父の訳では「わたしが道であり、いのちをもたらす真実である」とありました。イエス様こそが道そのものであり、永遠の命をもたらすことが本当にできる方です。そして、イエス様という道を通れば、誰でも天の父なる神様に至ることができるのです。このみ言葉をイエス様は別離を前にした弟子たちに語りました。「心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。」と。なぜなら、イエス様は私たちのために居場所を用意して、私たちをそこに迎えてくださるからです。これこそ驚くべき神の恵みです。
 土田三秀は若かりし時にキリスト教信仰によって救いが与えられ、生きる道を見いだしました。その道はイエス様そのもので、その道を通れば永遠の命に至ることができるのです。三秀が伝道者として伝えたのは、この道だと思うのであります。
 
 本日は主に土田三秀執事の伝道者としての生き方に思いを馳せ、そこに現された神のみ業、神の恵みを感じ取りました。私たち一人一人は土田三秀執事のの生き方と神の恵みを通して、自身の教役者としての在り方を見つめたいと思います。そして、伝道者として、永遠の命をもたらす道そのものであるイエス様を伝えて生涯生きることができるよう、導きを祈りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン