マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第3主日 聖餐式『エマオ途上で示されたイエス様の神秘』

 本日は復活節第3主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、ペトロの手紙一1:17-23とルカによる福音書24:13-35。説教では、イエス様がエマオ途上で示された「私たちのうちに入る」という神秘を知り、聖書を読み聖餐に預かることで私たちの信仰の目が開かれ、イエス様が私たちになさる業を見出すことができるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所を描いたレンブラントの絵画「エマオの食卓」や聖書通読表、ナウエンの著書「燃える心で 黙想-聖餐を生きる日常」等を活用しました。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は復活節第3主日です。聖書箇所について、使徒書はペトロの手紙一1:17-23で、キリストの血による贖い、キリストを復活させた神に対する信仰と希望、兄弟愛、新生という箇所です。福音書ルカによる福音書24:13-35で、エマオへの途上で復活の主がご自身を二人の弟子たちに現される箇所です。
 受付にその箇所の絵を置いておきました。週報や聖書日課の上にある透明のファイルに入ったレンブラントの絵画「エマオの食卓」です。この絵は1648年制作でパリのルーブル美術館にあります。

 福音書を振り返ります。このような話です。
『イエス様が十字架にかけられてから三日目、二人の弟子がエルサレムからエマオに向かう道を歩いていました。歩きながら二人は、在りし日のイエス様のことを話題としていました。すると、そこに一人の旅人が近づいてきて、「その話は何のことですか」と尋ねてきました。二人の弟子は暗い顔で立ち止まりました。そして、弟子の一人がその旅人にエルサレムで起こったことの一部始終を説明しました。その話が終わると、旅人は口を開き、二人の弟子がイエス様の十字架と復活を見聞きしながら、何も悟れないでいることを責め、その事柄の真の意味を聖書に基づいて説明し始めました。
 夕暮れになり、一行が家に入って食卓を囲んだとき、パンを祝福して裂き渡す旅人を見て、二人の弟子はその人がイエス様であることが分かりました。しかし、その姿は見えなくなりました。また、先ほどの聖書の説き明かしによって心燃える体験をしたことを思い起こし、喜びにあふれたのでした。
 そして、二人はエルサレムの弟子たちのもとへ、すぐに引き返して行ったのでした。』
 これが本日の福音書である、エマオ途上での復活の主と弟子たちとの出会いの箇所です。

 私はこの箇所で注目した文章が3つあります。それは、15・16節『話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。』、次に、27節『そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。』、そして、30・31節『一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。』です。

 一つずつ見ていきましょう。
  まず、15・16節『話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。』です。
 二人の弟子が歩んでいたのは、エルサレムからエマオに下る道でありました。エマオはエルサレムから六十スタディオン離れていたと書いてあります。1スタディオンは約185mで、その60倍ということで計算すると、約11キロとなります。昔風にいえば三里ほどいうことになります。歩いて三時間というところでしょうか?
  そのエマオへの途上で二人がここ数日のことを話していると、イエス様ご自身が二人に近づいて一緒に歩き始められました。「一緒に歩いて行かれた」と訳された原文の動詞の未完了形で、これは動作の継続を示します。「ずっと一緒に歩き続けた」ということです。しかし、二人にはそれがイエス様だとは分かりません。なお、「目は遮られて」の原文の動詞は受動態で、目的語のない受動態は神的受動態と言って神が動作の主体であり、「神が目を遮らせた」と考えられます。
 ずっとイエス様が一緒に歩き続けておられるのに気がつかない。このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか? 私たちの信じる主イエス様は、私たちが失意のうちに暗く沈んで歩いているときに近づいて共に歩き続けてくださる方です。また、イエス様のことが語られているところに、イエス様は近づいてきてくださり、歩みを共にしながら、その話を丁寧に聴き、いつの間にか主導権を握ってくださるのです。しかしその時、イエス様が共に歩んでおられることを私たちは気がつかないのです。

 続いて、27節『そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。』です。
 一緒に歩きながら聖書全体について語られた、つまりイエス様ご自身が説教をしてくださったとも言えます。ここのモーセは、モーセ五書のことです。旧約聖書の最初の五つの書、創世記から申命記までがモーセ五書です。それからはじまり、イエス様は聖書全体にわたりご自分について説明をされました。この場合の聖書はもちろん旧約聖書ですが、イエス様ご自身を証しするものとして聖書を説明されたのだと思います。ここから思うのは、私たちが生けるキリストに出会いつづけるには、聖書全体からの説き明かしが必要だということです。私たちは、一つの聖書の箇所だけ見つめていると、自分自身の理解、自分自身の思い込みで神のかたちを作り上げてしまうことがあります。しかし、聖書全体が説明されると、神の姿が明らかになり、より福音をはっきりとつかむことができるようになるのだと思います。その意味では聖書を通読することをお勧めします。
 ここに私の使っていた聖書通読表がありますが、読み始めが1999年6月26日、読み終わりが2012年1月4日と記されて、実に12年6ヶ月かかって旧約聖書続編まで含めて全巻読むのにかかっています。

    この通読表には読み終わった感想を書く欄があり、そこには「やっと読み終えほっとしています。神の計画がダイナミックに伝わってきました」とあります。希望される方には聖書通読表を差し上げますので、どうぞお話しください。

 最後に、受付に置いた絵の示している場面、30・31節『一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。』です。
 原文では、パンを裂くときに、「目が開かれた」と受動態で述べられています。ここの受動態も神的受動態と考えられ、これは「神が目を開かれた」ととることができます。人間が復活のイエス様を認めるためには、神様によって目を「開かれる」必要があるということではないでしょうか? また、「パンを取り、祝福して裂いて、渡す」・・・これは聖餐式を彷彿させます。二人はその姿の中に主の過越の食事であった最後の晩餐の様子を思い出したでしょう。私は、さらにこの二人はパンを渡される時、イエス様の両掌に釘跡があるのを見たのではないかと想像します。二人はこの方が復活したイエス様だと分かったのでした。

 しかし、それと同時に、イエス様の姿が見えなくなったと言われています。これはどういうことでしょうか? このことについて、カトリック司祭のヘンリー・ナウエンは「燃える心で 黙想-聖餐を生きる日常」という本の中でこう言っています。

『イエスが与えるパンを食べたとき、イエスが誰であるのか分かり、イエスが彼らの最も深いところに存在し、今彼らの中で呼吸し語り、つまり自分たちの中に生きておられるという深い霊的確信を得たのです。イエスが手渡されるパンを食べたとき、彼らの生はイエスの生の中へと変容されたのです。もはや生きているのは彼らではなく、イエスであり、キリストが彼らの中に生きておられるのです。そして、交わりの最も聖なる瞬間、イエスは彼らの視界から消えてしまいます。』(P.69)
 これは、要するに「イエス様が自分の中に入ったから見えなくなった」ということではないかと思います。つまり、イエス様は聖別されたパン(御聖体)の中に入り、それを私たちが食べることによりイエス様が自分の中に入り、イエス様が私たちの中で生きておられるというのです。これこそ、イエス様がエマオで示された神秘であります。

 この二人の弟子はイエス様の姿は見えなくなったけれど、イエス様が自分たちのうちにおり、共におられるということがはっきりと分かったのです。私たちもイエス様を肉の目で見ることはできませんが、聖書を読み聖餐に預かるとき、主が私たちのうちにおり、共におられることを体験するのであります。

 皆さん、イエス様は私たちの人生の旅の途上で、私たちに深く関わり共に歩み続け、み言葉と聖餐を通して、ご自身の姿を神秘として示し、私たちのうちにいてくださいます。
 復活され、私たちといつも共にいてくださる主イエス様に信頼し、聖書を読み聖餐に預かり、それにより私たちの信仰の目が開かれ、日々の生活の中でイエス様が私たちになさる業(働き)を見出すことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。