マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『エリック・クラプトンとキリスト教信仰③』

 クラプトンのコンサートから2週間以上が経ちますが、いまだ彼と彼の音楽が気になっています。前回のこの関係のブログで取り上げた「Tears in Heaven」はクラプトンの転機になった作品ですが、この頃もう1曲、興味深い曲を創作しています。それが「My Father's Eyes」です。以前紹介したクラプトン自伝の中にこうあります。
『コナーを失ったことと、私の父親の人生をとり巻く謎を絡ませた、「マイ・ファーザーズ・アイズ」を書いた。この中では私たちの血のつながりを通して、息子の目を見つめることと、会ったことのない父親の目を見つめることの共有点を表現しようとした。』(エリック・クラプトン自伝P.360)
 私はこの曲をこのCDで聞いています。1998年のアルバム「Pilgrim(巡礼者)」の一曲目に収録されています。

「My Father's Eyes」は下のURLで、歌詞と和訳付きで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=ZVAvvFoFbJU

「My Father's Eyes」の歌詞と和訳を示します(youtubeの和訳とは異なります)。

Sailing down behind the sun, Waiting for my prince to come.
Praying for the healing rain To restore my soul again.
太陽の影に隠れて航海しながら 僕の王子が来るのを待っている
僕の魂を再び甦らせるために 癒しとなる雨が降るのを祈っている

Just a toe rag on the run. How did I get here?
What have I done? When will all my hopes arise?
How will I know him? When I look in my father's eyes.
My father's eyes. When I look in my father's eyes.
My father's eyes.
僕は逃げまわっている嫌な奴に過ぎない どうやってここに来たんだろうか?
僕は何をしたのだろうか? 僕の希望はいつ生まれてくるのだろうか?
どうやって彼のことを知ればいいのだろうか? 父の目で見る時に
そう、父の目で見る時に

Then the light begins to shine And I hear those ancient lullabies.
And as I watch this seedling grow, Feel my heart start to overflow.
その時、光が輝き始め 古き子守歌を聞く
この苗木が育つのを眺めながら 僕の心が満たされるのを感じる

Where do I find the words to say? How do I teach him?
What do we play? Bit by bit, I've realized
That's when I need them, That's when I need my father's eyes.
My father's eyes.
言うべき言葉をどこで見つけるか? 彼にどうやって伝えるか?
私たちは何を演じればいいのか? 少しずつ、分かってきた
それは、僕が必要と感じた時だ 父の目を必要と思った時だ
父の目を必要と思った時だ

Then the jagged edge appears Through the distant clouds of tears.
I'm like a bridge that was washed away; My foundations were made of clay.
ギザギザに尖った刃が、 遠くに見える涙の雲から現れる。
僕は、流された橋のようなもの 僕の土台は柔らかい粘土質で出来ていたのだ

As my soul slides down to die. How could I lose him?
What did I try? Bit by bit, I've realized
That he was here with me; I looked into my father's eyes.
My father's eyes. I looked into my father's eyes.
僕の魂が、死へと滑り落ちていく時 どうして彼を失うことになったのか?
何をしたのだろうか? 少しずつ、分かってきた
僕がいつでも彼と一緒にいたということが 僕は父の目を見つめた
その時、僕は父の目をじっと見つめた

 前回も記しましたが、エリック・クラプトンは、1991年に4歳の息子コナーを自宅マンションのベランダからの転落死で失いました。また、彼は実父を知らないまま育ったため、会ったことのない父への想いは大きいものだったと思われます。そのため、この曲は、この「亡くなった息子の父としての自分」と「実父を知らない自分」という2つの視点を含んだ複雑な歌詞の内容と言えます。
『That's when I need them, That's when I need my father's eyes.
それは、僕が必要と感じた時だ 父の目を必要と思った時だ』
と歌っています。つまり、僕は父から見つめてもらうことを求めています。さらに、
『Bit by bit, I've realized That he was here with me; 
少しずつ、分かってきた 僕がいつでも彼と一緒にいたということが』
と歌っています。それは、僕はいつも父と一緒にいた、ということです。
 ここでの父とは、一義的にはクラプトンの父であり、コナーの父である自分ですが、大きく見れば父なる神(Father)のことでもあると言えるのではないでしょうか? つまり、クラプトンは神に見つめてもらうことを求め、神はいつも一緒にいてくださったということです。そして、それは私たちにも言えることです。クラプトンのキリスト教信仰がこの曲を生み、さらに言えば、神はこの曲を通してある真実を伝えようとしていると思います。

 以前にも説教で語りましたが、「見る」の単語はギリシャ語では3種類あります。「ブレボー」と「セオレオー」と「ホラオー」です。それぞれ、「単に見る(目に入る)」、「よく見る(観想する)」、「洞察する(心の目で見る)」の意味です。
 神はギリシャ語で「セオス」と言いますが、それは「セオレオー(観想する)」から派生したという説があります。観想とは神との一致を求めて行う黙想で、ラテン語ではcontemplatio、英語ではcontemplationと言います。それは「じっと見つめること」「時間をかけて注意深く見ること」でもあります。神は私たちをじっと見つめ、私たちを注意深く見つめてくださっているのです。神は、クラプトンの「My Father's Eyes」を通して、このことを私たちに伝えようとしてるのではないでしょうか?

 私は毎日、「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を捧げていますが、それは神との一致を求めて行う観想で、神を見つめて黙想します。しかし、同時に神も私を注意深く見つめてくださっていることを感じる瞬間があります。それが「My Father's Eyes」だと思います。神は私たちをじっと見つめ、いつも一緒にいてくださるのです。エリック・クラプトンの「My Father's Eyes」から、このようなことを思い巡らしました。