マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『エリック・クラプトンとキリスト教信仰①』

 三大ギタリストの一人で、ロックギターの神様とも言われているエリック・クラプトンが来日中です。クラプトンは現在78歳、最後の来日公演になるかももしれません。私もやっとチケットを手に入れました。4月24日(月)の最終日での武道館コンサートです。サイドステージのしかありませんでしたが、楽しみです。
 エリック・クラプトンは、1945年3月30日、英国サリー州リプリー生まれ。サリー州は、イングランドの南東部に位置しロンドンの通勤圏です。クラプトンはヤードバーズやクリームやブラインド・フェイスやデレク・アンド・ザ・ドミノス等、多くのバンドやソロで活躍し、私生活ではドラッグやアルコール依存症、数度の結婚や5歳の息子を亡くすなど、波瀾万丈な人生を歩んでいます。
  私は彼の人生について、この「エリック・クラプトン自伝」を読み、振り返っています。

  この本や彼のレコード等から彼の人生のベースにはキリスト教信仰があると感じたので、これから数回にわたって「エリック・クラプトンキリスト教信仰」について記してみたいと思います。
 エリック・クラプトンは16歳のパトリシア・モリー・クラプトンと25歳のエドワード・ウォルター・フライヤーとの間に生まれました。父親のフライヤーはカナダの軍人で、クラプトンが生まれる前に出征し、その後カナダに帰国しました。クラプトンは祖母のローズとその2番目の夫であるジャック・クラップ(母パトリシアの継父)を両親として育ち、彼は母親のパトリシアを年の離れた姉と信じていました。複雑な家庭環境で、彼は孤独な少年時代を送り、母親のパトリシアは別のカナダの軍人と結婚してドイツに移り住み、幼いエリックを祖父母と一緒にサリーに残しました。

 キリスト教との最初の関わり等については、自伝にこうあります。
『私の学校生活は、5歳の時に、村の教会の隣にある石造りの建物の中の、リプリー・チャーチ・オブ・イングランド・プライマリー・スクールで始まった。反対側には村の集会場があって、そこへ日曜学校に通い、初めて美しいイギリスの讃美歌を聴くことになった。私が大好きなのは「「ジーザス・ビッズ・アス・シャイン」だった。』(P.19)

 音楽との関わりについては、自伝にこうあります。
『小さい頃から私が聴いてきた音楽のほとんどは、いつも家の中でつけっぱなしになっていたラジオから流れてきたものだった。(略)オペラ、クラシック、ロックンロール、ジャズ、ポップスと、広範囲の音楽を聴いていた。(略)音楽は私にとって治療薬になった。私は全身全霊で耳を傾けるようになり、自分の家族に関する不安と戸惑いを音楽で忘れることができるのを発見した。』(P.30~32)
 その後は、特にギターミュージックを好きになり、13歳の誕生日にアコースティック・ギターをプレゼントされ練習を始め、その後、エレクトリック・ギターも手に入れ、集中して練習しました。クラプトンは幼い頃からブルースの影響を受け、レコードに合わせて演奏し、ブルースのコードを学ぶために長時間練習し、腕を上げていきました。
 彼のギターテクニックは卓越し、16歳までに注目を集めるようになりストリートパフォーマンスを始め、その後、ヤードバーズやクリーム等で活躍し名声を得ます。
 その頃の曲で私が注目したのが、クリーム解散後に結成したブラインド・フェイスの「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」です。この曲は、クラプトンのみがクレジットされた初の曲でした。私はこの曲を次のCDで聴いています。このアルバムはイギリス及びアメリカでチャート1位となりました。

 ブラインド・フェイスは、クリームのドラマーであったジンジャー・ベイカートラフィックスティーヴ・ウィンウッド、ファミリーのリック・グレッチで構成され、1969年6月7日にロンドンのハイド・パークで10万人のファン
の前でデビューしました。その時の「プレゼンス・オブ・ザ・ロード"Pesence of the Lord"」の演奏を次のURLで聞く((観る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=XBKgiPlZWIk
 
 "Pesence of the Lord"の歌詞と和訳を下に記します。

I have finally found a way to live just like I never could before
I know that I don't have much to give, but I can open any door
Everybody knows the secret, everybody knows the score
Yeah, yeah, yeah, yeah
I have finally found a way to live in the colour of the Lord
今まで知ることのできなかった生きる道をついに見つけた
与えられるものは多くないけど どんな扉だって開けられる
誰もが秘密を知っている 真実を知っている
イエー イエー イエー
ついに見つけた 生きるべき道を 主の導きの中で

I have finally found a place to live just like I never could before
And I know I don't have much to give, but soon I'll open any door
Everybody knows the secret, everybody knows the score
I have finally found a place to live, oh, in the presence of the Lord
In the presence of the Lord
今まで知ることのできなかった生きる場所をついに見つけた
与えられるものは多くないけど どんな扉だって開けられる
誰もが秘密を知っている 真実を知っている
ついに見つけた 生きるべき場所を 主の臨在の中で 主と共に

I have finally found a way to live, just like I never could before
And I know I don't have much to give, but I can open any door
Everybody knows the secret, I said everybody knows the score
I have finally found a way to live in the colour of the Lord
In the colour of the Lord
今まで知ることのできなかった生きる道をついに見つけた
与えられるものは多くないけど どんな扉だって開けられる
誰もが秘密を知っている 真実を知っている
ついに見つけた 生きるべき道を 主の導きの中で   主の導きによって

 この歌詞はほとんど聖歌・讃美歌と言っていいと思います。曲もプロコル・ハルムの「青い影」のようにバッハにも通じるようなサウンドに聞こえます。この歌詞から、先主日福音書で、イエス様の十字架の三日後の夕方、すべての扉に鍵をかけて潜んでいた弟子たちが復活の主イエス様に出会ったことにより、扉の鍵を開けてこの世界に出て行く力が与えられたことを思い浮かべました。
 さらに、バンド名がブラインド・フェイス(Blind Faith)であったことから思い浮かべる聖書箇所があります。それはルカによる福音書18章35-43節です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「エリコの近くで盲人を癒やす」となっています。
『イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人を連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、また見えるようになることです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神を崇めながらイエスに従っ行った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。』
 盲人(The blind)が目を見えるようになったのは彼の信仰(Faith)の故と、イエス様はおっしゃっています。しかし、それはイエス様と出会い、主の臨在の中で、主の導きによってなされた業です。「プレゼンス・オブ・ザ・ロード"Pesence of the Lord"」の歌詞の通りです。
 この曲を作詞・作曲したエリック・クラプトンも信仰によって生きるべき道、生きるべき場所を見いだし、複雑な家庭環境に生まれた人生が救われたのだと思いました。
 私たちも、主の臨在の中で主の導きによって、真の生きる道、生きる場所を見いだすことができるのだと、ブラインド・フェイスの「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」から気付かされました。