マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第23主日 聖餐式 『共にいて生きて働く神』

 本日は聖霊降臨後第23主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙二3:6-13とルカによる福音書21 :5-19。騒乱や天変地異・迫害等が起きても、神はいつも私たちと共にいて生きて働いてくださることを知り、忍耐してイエス様の下にとどまり続けるよう祈り求めました。今日の聖書箇所から思い浮かべた映画、黒澤明の「生きる」についても言及しました。

   共にいて生きて働く神

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は、聖霊降臨後第23主日です。教会の暦で年の最後から2番目の主日になります。
 年の最後の3つの主日に取り上げられている聖書箇所は「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに私たちの心を向けさせます。
 皆さんはもうすぐ世の終わりが来たり、自分の死が目前になったりしたらどうされますか? 悔いのないように何かをするということがあるかもしれません。このことについては説教の終わりのところで考えたいと思います。
 さて、本日の聖書箇所です。使徒書は、パウロがテサロニケの信徒に対して、主の来臨を前に、あるキリストに従う者たちが「怠惰な」生活をしているのを戒めている箇所が取られています。

 そして、福音書は、ルカによる福音書の21章5節から19節までで、エルサレムの神殿の境内において、イエス様が語られたことの一部が取られています。この箇所の聖書協会共同訳聖書の小見出しは「神殿の崩壊を予告する」(5-6節)と「終末の徴(しるし)」(7-19節)となっています。
 概要は、こうです。
『ある人たちが神殿の素晴らしさを話している時、イエス様がその崩壊を予告します。これが現在の神殿跡です。

 これも立派な建物ですが、当時はもっと壮麗なものだったと考えられます。イエス様はそれが「残らず崩れ落ちる」と言うのです。すると、その人たちは、「それはいつで、その時はどんな兆候が現れるか」と聞きます。それに対してイエス様は「私の名を名乗る者が現れ「時が近づいた」などと言われても惑わされないように。戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。世の終わりはすぐには来ない」と言い、さらに「動乱や天変地異が起き、その前に迫害が起きるが、それはあなたがたにとって証しをする機会となる。親・兄弟・親族・友人にまで裏切られ、殺される者もいる。あなたがたは私の名のために憎まれるが、髪の毛一本もなくならない。忍耐によって命を得なさい」とイエス様は言われました。』という箇所です。
 昨今の我が国や世界各地の地震や台風、豪雨等の天変地異、ウクライナでの戦闘や世界各地の暴動等に目を向けると、これは2000年前のユダヤの話であると簡単に片付けることができない箇所だと思います。

  本日の聖書の箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか? 私は今日の福音書箇所のキーセンテンスは3つあると考えました。それは9節の「戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。」、13節の「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」、19節の「忍耐によって、あなたがたは命を得なさい。」です。そのことを中心に振り返ってみます。

 まず、9節の「戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。」です。
 イエス様は、神殿崩壊があり、その後、大きな変化があっても、それが終わりの時のしるしではないということを、まず話されました。自称キリストが現われたりしても、終わりではありません。また、戦争や騒乱のことを聞いても終わりではありません。その後にイエス様はこう言われます。「こうしたことがまず起こるに違いないが、それですぐに終わりが来るわけではない。」と。さらに、イエス様は、「惑わされないように気をつけなさい。」「おびえてはならない。」と言われました。私たちが、「終末」というような言葉を聞く時、それらはみな、恐怖心や好奇心を引き起こさせるようなものばかりです。けれども、私たちは、世の終わりをそのように見てはいけないのです。終末についての話で、「まどわされるな、おびえるな」と、自分が振り回されることがないようにと、イエス様は勧められたのです。
 
 次に、13節の「それは、あなたがたにとって証しをする機会となる。」です。
 このことについては、イエス様の十字架・復活の後の弟子たちの活動に即して考えたいと思います。ペトロとヨハネが受けた迫害によって、エルサレムからユダヤへと福音が広まりました。ステファノが殉教したことによって、サマリア全土に御言葉が宣べ伝えられるきっかけとなりました。さらに、ユダヤ人から命を狙われ、エルサレムの教会からよく思われていなかったパウロは、ローマなどヨーロッパの各地に福音を宣べ伝え、それが地の果てにまで広がりました。このように、迫害の中で、福音がさらに広まり、彼らはキリストの証人となりました。迫害そのものが結果として証しとなったのです。なぜ彼らはそうできたのでしょうか? 迫害や苦しみの中にあって、彼らは他に頼るものがないと心底思い、一層神様に寄り頼み、神様が共に生きて働いてくださることを実感したからではないでしょうか? 私たちは、順調に物事が進む時は、いつの間にか目に見えるものに頼ってしまいます。けれども、私たちが迫害や困難な状況に置かれた時、神様にのみ頼るしかないと思い、祈る時に、神様が生きて働いていることに気づかされるのであります。
 13節に続く14節の「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」との言葉は意外と思うかもしれません。それについては、「イエス様が必要な言葉と知恵を授けてくれるから」とあります。ここの言葉と訳された原語は「口」を意味するギリシャ語「ストーマ」でした。ここはイエス様が必要な「口」と知恵を与えてくれるということ、つまり、イエス様の口が私たちの口となるからということで、それは、自分のことでなく神様の御心を話す・神様の御旨を証するということです。

 最後に、19節の「忍耐によって、あなたがたは命を得なさい。」です。
 この節の直訳は、「あなたがたは忍耐によって、あなたがたの命を手に入れることになります」であり、命を自分の力でかち取るというよりも、神様によって与えられる結果として命を手に入れることができるというものだと思います。
 ちなみに、ここの「命」はギリシア語「プシュケー」の複数形でした。「プシュケー」は「魂」や「心」とも訳される言葉です。ですから「あなたがたは忍耐によって、あなたがたの魂(心)を手に入れることになります」とも訳せます。 なお、忍耐と訳された言葉の元々の意味は「あるところのもとにとどまり、辛抱し、期待を持ち続けること」です。では、あるところとはどこでしょうか?
 本日の福音書箇所で、イエス様がとどまるようにと教えておられる言葉があります。その同じ言葉が三回出てきます。それは、「私の名」という言葉です。この言葉が8節、12節、17節にあります。
「私の名」とは、イエス様の名のことです。「イエス様の名にとどまることによって、命を手に入れることになる」と、いうのです。
 日本語でも、「名は体を表す」といいます。「イエス様の名」とは、イエス様の存在そのものと考えます。イエス様の存在そのものにとどまる、イエス様の下にずっと居続けることによって結果として、命(魂・心)を手に入れることになるのだと思います。

 また、本日の使徒書、テサロニケの信徒への手紙二の3:10で、パウロは「働こうとしない者は、食べてはならない」、働きなさい、と命じています。「働かないとだめだ」と言っています。日本語で「働く」という語源は「傍(はた)を楽にする。自分のためではなくて周りの人のために働く」ということです。周りの人を楽にさせるためにこそ働かなければならない。他の命を生かすためにこそ、私たちは働く必要があるということです。そのような気持ちで人生を送りたいものだと思います。

 今日の聖書箇所から思い浮かべた映画があります。それは黒澤明の「生きる」です。

「生きる」は1952年(昭和27年)の白黒の作品ですが、御覧になった方はおられますか? こんな筋です。
『主人公である志村喬(たかし)演じる市役所の市民課長が、自分が胃癌にかかっていることを知り、余命いくばくもないと考えます。不意に訪れた死への不安などから、自分の人生の意味を見失った彼は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよいます。しかし、虚しさだけが残りました。そのようなとき、かつての部下で今はおもちゃ工場に勤める若い女性から「あなたも何か作ってみたら」と言葉をかけられ「自分にもまだできることがある」と気づき、市役所に復帰します。彼は自分の生涯の最後の仕事として住民の要望に応え子供たちのために公園を作る運動を始めます。そして頭の固い市役所の幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザ者からの脅迫にも屈せず、ついに住民の念願であった公園を完成させます。雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて満足して「いのーちー、みじーかし」という歌を歌いながら、彼は息を引き取ったのでした。』
 このような筋でした。自分自身の死が目前に迫っていることを知り、残された時を他者のために献げてやまないこの主人公のなかに、真の意味において「生きる」人の姿を私たちは見い出すのであります。

 私たちキリストに従う者は、本日の使徒書にあるように、終わりの時が近づいたときに、怠惰な生活ではなくイエス・キリストに結ばれた者として落ち着いて働くよう命じられています。それが証しだと思います。
 そして、そうできるのは、本日の福音書で見てきたように、自分の力でなく、神様が共に生きて働いてくださるからです。そのために私たちがなすべきことは何でしょうか? 神様に信頼し、神様に寄り頼み、イエス様の下にとどまり続けることではないでしょうか? その結果、本当の命、本当に「生きる」ということが得られるのだと思います。

 皆さん、騒乱や天変地異・迫害等が起きても、神様はいつも私たちと共にいて生きて働いてくださいます。ですからどんなときも、おびえず、一層、神様に信頼し寄り頼み、忍耐してイエス様の下にとどまり続けるよう祈り求めて参りたいと思います。