マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第18主日 聖餐式 『神の愛とキリスト者の生き方』

 本日は聖霊降臨後第18主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ルツ記1:8-19aとルカによる福音書17 :11-19。神はすべての人を愛しているということと、イエス様に戻り礼拝することを望んでいることを知り、日々神を崇めイエス様に感謝する信仰生活を送ることができるよう祈り求めました。「規定の病」という言葉の意味することについても言及しました。

   神の愛とキリスト者の生き方

<説教>  
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第18主日、聖書日課は特定23です。今日の福音書は、「規定の病」(新共同訳では「重い皮膚病」)を患っている10人がイエス様により治癒されましたが、感謝するために戻ってきたのは、サマリア人のみであったという箇所です。神を崇めるのが、ユダヤ人でなく「外国人」であったことから、旧約日課では、イスラエルの民に入り、その神を自分の神とする「外国人」モアブの女性ルツの話が選択されています。
 福音書中心に旧約にも言及して考えます。今日の福音書の箇所はルカ17 :11-19で、それほど長くないので、少しずつ読み進め、思い巡らしてみます。

11 イエスは、エルサレムに進んでいく途中、サマリアガリラヤの間を通られた。
 エルサレムからサマリアガリラヤの間は北から北東へ約100キロから90キロぐらいと思われます。エルサレムを東京と例えると、東京から北から北東へ100キロから90キロといいますと、ちょうど群馬と栃木の南部あたりと考えられます。
 イエス様は、異邦人とユダヤ人の混血であるサマリア人の住む土地であるサマリアと、ユダヤ人が住むガリラヤとの間を通られました。そして、エルサレムに向かっています。今の日本の関東地方で例えるとエルサレムを含むユダヤは東京・埼玉、サマリアは群馬、ガリラヤは新潟といった位置関係です(動作で示す)。
 
12 ある村に入られると、規定の病を患っている十人の人が出迎え、遠くに立ったまま、 13 声を張り上げて、「イエス様、先生、どうか、私たちを憐れんでください」と言った。
 サマリアガリラヤの間のある村にイエス様が入りますと、新共同訳で「重い皮膚病」と表記された「規定の病」の人たち10人が、遠くから叫んでいます。というのは、その人たちは、律法によって人に近づくことが禁じられていたからです。誰かが近づいて来たら、「私は汚(けが)れた者です。汚れた者です。」と叫ばなければなりませんでした(レビ記13:45)。かつて口語訳等で「らい病」、新共同訳で「重い皮膚病」と表記されていたのが今回の「聖書協会共同訳」で「規定の病」となったのは、この病がこのように、「旧約聖書の律法で規定された病」だからです。
 そのことが、この本『ここが変わった!「聖書協会共同訳(新約編)」』に記されていました。

 この本によれば、「規定の病」は様々な皮膚の疾患の状態で、現在のハンセン病差別の在り方と酷似しているとのことです。その病を患っている彼らは、イエス様が「憐れんでくだ」さるのを願っています。彼らも、イエス様の評判を聞いていたのです。そして、イエス様が近くに寄ってくれたらと、ひそかに願っていましたが、今、その夢がかなえられたのです。
 彼らは必死に声を張り上げて叫びました。「イエス様、先生、私たちを憐れんでください」と。これは祈りです。主に向けられた叫びは祈りでもあります。私たちは聖餐式の最初のところで「主よ、憐れみをお与えください」と唱えていますが、私たちも彼らと同様に必死に祈っているのです。

14 イエスは彼らを見て言われた。「行って、祭司たちに体を見せなさい。」彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 
 イエス様は、この人たちを見ました。ちらっと見たのではなくて、しっかりと「憐れみ」という眼差しで見たのだと思います。そして「行って、祭司たちに体を見せなさい。」とおっしゃいました。
 なぜイエス様はそう言われたのでしょうか? 当時の社会では、この病気を宣告するのも、治癒(ちゆ)を宣言するのも、祭司の役目でした。肉体的に病気が治っても、祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができないのです。イエス様はその人が元々所属していたコミュニティとの関係を取り戻すことも意図しておられたと思われます。そこで、「祭司たちに体を見せなさい。」と勧めました。そして、10人はその元々のコミュニティに帰る途中で清くされました。

15 その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。16 そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
 律法に規定された重い皮膚病のために人間性が否定され、神に呪われた者としてレッテルを貼られ、社会からも、家族からも排除されていたこの10人の人たちが、イエス様によって清くされました。彼らは清くされたことを感じ、知って、躍り上がって喜んだと思います。神殿に行き、祭司に体を見せて、その祭司から「彼らは清くなった」と宣言してもらったに違いありません。
 その後、この10人の人たちは、どうしたでしょうか? そのうちの9人は、すぐに家に帰ってしまったか、そのことを伝えたい人のところへ走って行ってしまったと考えられます。その中の一人だけが、自分が癒されたのを知って、大声で神を崇めながら、イエス様のところへ戻って来ました。そして、イエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人でした。
 
17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 18 この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」 
 「この外国人」というのは、サマリア人のことです。ユダヤ人の方からはサマリア人を、異邦人・外国人と呼び、罪人というレッテルを貼って差別していたのです。この外国人であるサマリア人だけが神を崇めるためにイエス様のところに戻って来たのです。

19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 
 救いとは「清くされた」だけでなく、「癒されている」ことに気づくことです。イエス様のもとに戻ってきたサマリア人は癒されましたが、体だけが癒されたのではなく、心も魂もすべて癒されたのです。彼は神様との交わりに入り、癒されていることに気づき、救いを得たのです。
 また、「立ち上がって行きなさい」の言葉は、ちょうど聖餐式の最後の「派遣の祝福(ハレルヤ、主とともに行きましょう)」を思わせます。神様はその救いの業を遂行されます。その救いの業に応答して、私たちは、聖餐を土台とする式に戻り、感謝と賛美を捧げ、もう一度立ち上がり日常生活に派遣されるのです。

 今日の福音書の箇所で、神様が私たちに伝えようとしていることは何でしょうか?
  私は2つあると思います。1つは、神様はすべての人を一人の例外もなく、愛している、ということです。 イエス様が「規定の病」の10人を、サマリアに生まれようとガリラヤに生まれようと、サマリア人であろうとユダヤ人であろうと関係なく、等しく癒してくださったように、神様は生まれた地域や民族・人種によって差別することはないのです。そして、自分では神様に近づくこともできないような人に対して、神様は憐れんで近づいてくださるのです。そのように神様はすべての人を愛してくださるのだということです。
 神様が私たちに伝えようとしているもう1つのこと、それは、神様は私たちに、イエス様に戻り、礼拝することを望んでおられることだと思います。サマリア人が「大声で神を崇めながらイエス様の所に戻り、イエス様の足もとにひれ伏して感謝した」こと、これは、礼拝する人の姿です。イエス様に戻り、礼拝すること。これがキリスト者の生き方です。
 私たちは、神様はすべての人、私をも愛しているということを知り、イエス様のもとに戻り日々神様との関係を保ち、感謝し礼拝するように祈って参りましょう。それが、私たちが信仰者として生きるための原動力となります。

 このテーマと関係している今日の旧約聖書日課の箇所はルツ記1章です。ルツ記はこんなお話です。
『ルツ記は異邦人であるモアブ人ルツとその姑ナオミの物語です。エリメレクと妻ナオミは、飢饉のためユダのベツレヘムから2人の子を連れて異国のモアブに移住しました。モアブは、ユダから見れば、今の死海(当時は「塩の海」)を隔てた異国の地です。その地で夫エリメレクが亡くなり、モアブの女性と結婚していた息子たちにも先だたれて、ナオミは帰国することにしました。ところが2人の嫁の1人、ルツは姑と別れようとはせず、一緒にベツレヘムにやってきます。その後、ルツは落ち穂拾いをしますが、そこでエリメレク一族の裕福なボアズに出会い、ボアズは、当時の親族の義務として、子のないまま死んだ近親者の寡婦(かふ)(未亡人)と結婚して亡くなった夫の名を継ぐ子をもうける義務を果たす者として、ルツと結婚します。その間(あいだ)に生まれた男子がオベドで、オベドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれた』ということで物語は終わります。
 ルツ記1:16で、ルツはナオミに「あなたの民は私の民 あなたの神は私の神です。」と告白して、自分の部族の神を離れ、ナオミの信じるイスラエルの神を信じる者となりました。子供を授かったルツは、人々からも祝福を受けます。神様の救いは異邦人にも及んでいます。救いを受けるのに必要なことは、神様の導きが常にあることを信じ、身を委ねることです。ルツ記は、唯一の神を信じすべてを神に委ねる者は、誰であれ、異邦人にも神様の慈しみと祝福が与えられることを語っています。

  福音書に戻ります。「規定の病」を患っている10人は「私たちを憐れんでください」とイエス様に叫び声を上げました。人が祈るのは、自分の苦しみを救う力が自分にはないことを知っているからで、神様に助けを祈るとき、人は自分を神様に委ねているのです。そのような人に救いは神様から差し出されます。イエス様によって10人が清められましたが、イエス様のもとに戻ったのは1人のサマリア人だけでした。残りの9人は、重い皮膚病が清められたのは分かりましたが、その出来事の背後で働く神様の姿にまで目を向けることができませんでした。彼らは身体的には癒されましたが、心も魂も癒されたとは言えません。病の治癒という同じ出来事に出会っても、その出来事の向こうに神様を見る眼を持つことがなければ真の救いにあずかることはできないのです。

 私たちを慈しみ祝福しようとする神様の思いに気づくこと、神様からの癒しに気づくことが救いです。神様の差し出す救いの手に気づくとき、人は神を崇め、イエス様に感謝するという生き方へと変えられていきます。それがキリスト者の生き方、信仰生活です。救いから遠い罪人とされていた異邦人も、自分に働きかけている神様の手を見つめる「信仰」という目に恵まれるなら、生き方の向きを変え、神を崇め感謝のうちに生きるのであります。私たちも、私たちを慈しみ愛する神様の思いやその差し出す救いの手に気づき、イエス様に戻り、神様との関係を保つようにしたいと思います。そして、生涯、礼拝を大切にし、神を崇めイエス様に感謝する、信仰生活を送ることができるよう祈り求めたいと思います。