マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第5主日聖餐式 『「地の塩、世の光」として生きる』

 本日は顕現後第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一2:1-11とマタイによる福音書5:13-20。小さくされた人々こそ「地の塩、世の光」であること、私たちも、塩味を加え、イエス様から光を受けた「地の塩、世の光」であることを認識し、そのことを、日々の生活の中で実践できるよう祈り求めました。
 青山学院宗教センター編の「地の塩、世の光~人物で語るキリスト教入門~」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第5主日です。福音書はマタイによる福音書5:13-20です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは13-16が「地の塩、世の光」、17-20が「律法について」とあり、2つの部分からなっています。後半は「イエス様の到来は律法と預言者の完成のためであること」が述べられています。律法と預言者とは旧約全体のことを指しています。使徒書はコリントの信徒への手紙一 2章からで、パウロの、十字架につけられたキリストのみを宣教すること、「隠されていた、神の秘儀としての神の知恵」を語ることが主張されています。どちらも、神に従う者の在り方が記されていると思います。 

 福音書を中心に見ていきます。今日は主に前半部分を中心にお話します。
  マタイ福音書の5章からは有名な「山上の説教」です。本日の箇所の直前(先週の聖書日課)には「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」で始まる8つの幸いの教えがあります。そして、これらが語られた対象は弟子たちと群衆で、その多くは、病気の人、障害のある人、貧しい人、悪霊に取りつかれている人、苦しむ人、そういう人たちでした。その人たちに本日の箇所でイエス様は言われます。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」と。
 ギリシャ語では代名詞がなくても動詞の変化を見れば何人称であるか分かるので通常「あなたがたは」などの代名詞はありません。しかしここでは何度も「あなたがたは」という代名詞が繰り返されています。それは強調のためと考えられます。そうであれば、「まさしくあなたがたこそが」という意味です。また、動詞は直説法であり、決して「地の塩になりなさい」という命令でも、「地の塩なら」という仮定でもありません。「あなたがたは地の塩である。世の光である」と宣言されているのです。そしてそれは、私たちに向かっても言われています。これが、本日のイエス様の私たちへのメッセージです。

 イエス様の周りに、病気の人、貧しい人、障害のある人が集まりました。その当時の価値観はどういうものだったでしょうか? それはこうでした。病気や貧困、障害、そういうものは、自分か家族のだれか、あるいは先祖のだれかが犯した罪の罰を受けているのだと考えられました。それが当時の考えでした。
 ですから、病気の人、苦しむ人、障害のある人、貧しい人、そういう人は、神様から見放されている、と人々から見られていました。そして、自分でもそのように思わざるを得ない。そういう状況でありました。そういう人々がイエス様のもとに集まってきました。その人々に向かって、イエス様が言われたのが、今日の言葉です。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」と。
 「地の塩になれ。世の光になれ」と言われているのではありません。「地の塩である」と言われているのです。そして、「世の光である」と言われているのです。

 塩というのは何でしょうか? ひとつまみの塩が料理全体の味を調えます。自分自身は隠れてしまって、料理の素材そのものを引き出すようなものが、塩という働きでしょう。そして、塩は清める、そんな働きもあります。また、腐敗から守る、そういう働きもあります。
 また、光というのは何でしょうか? 照らす存在です。あなたがたは、「照らす」という存在なのだから、升の下に閉じ込めたりしたらいけない。山の上にある町は、夜、その光は隠れることができない。イスラエルではナザレもエルサレムも山の上に町があり、そこに光がともされ輝いていました。そういう存在であるのだから、そのように生きるのだ、と言われているのです。
 さらに、16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。」とあります。ギリシャ語を直訳すると「あなたがたの光が人々の前に輝きなさい」と述べているのであって、「あなたがたが光を輝かせなさい」と言っているのではありません。「輝かせなさい」は三人称の命令形で、ここは英語の聖書では「Let your light shine before others(NRSV)」(あなたがたの光を他の人の前で輝かせなさい)とありました。イエス様が期待していることは、キリスト者が自ら光を輝かすのではなく、人々の前にイエス様の光を反射させるということです。つまり、私たちは月のような存在であるということです。そうするときに、人々が「あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇める」ことができるというのです。さらにギリシャ語原文の「輝かせなさい」は動作の開始を表す時制(アオリスト)でした。従って、イエス様のもとに行き、イエス様と関わるとき、光が与えられ、その光が輝き始めるということを表していると言えます。
 
 私たちは「地の塩である。世の光である」と言われます。繰り返しになりますが「塩になれ、光になれ」と言われているのではありません。塩であり、光である。だから、その「である」を生きるようにとイエス様は励ましておられます。
 私たちが「塩であり、光である」というその「である」を、何が支えているのでしょうか? 人間の評価がそれを作るのではありません。周りの人が「地の塩のような人だね」と言ってくれるから、そうなるのではありません。周りの人から「光だ」と言われて、光になるのでもありません。そうではなく、私たちの命の根源である神様が、私たちが「塩であり、光である」という「である」を創り、支えてくださるのです。それこそが神様の恵みであります。

 私は引照付きの聖書を読んでいます。関連する箇所を参照しながら読みますと、より立体的に神様の御心を理解できるように思います。今日の箇所の5:14「あなたがたは世の光である。」の参照箇所はヨハネ福音書8:12でした。そこにはこうあります。『イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」』と。
 つまり、病気の人、障害のある人、貧しい人、苦しむ人、そういう人たちが世の光であると共に、イエス様自身も世の光だというのです。
 さらに、先ほど交唱しました詩編27編1節にも「主はわたしの光、わたしの救い、わたしはだれをも恐れない」とある通り、イエス様は私たちの光でもあります。
 また、5:16『そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」』の参照箇所はペトロの手紙一 2:12でした。こうあります。『また、異教徒の間で立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。』と。
 ここでは、キリスト者が少数のこの日本で「イエス様の光を反射し、立派な行いをすること」が重要であると示されているととらえます。これこそが宣教だと思います。

 イエス様は私たちキリスト者には個々に、そして教会には集合的に、塩である、また、光である権能を与えておられます。私たちは、塩味を加え、自分たちの社会でイエス様から受けた光を輝かすことが求められています。そしてその目的は、神様が崇められることであります。

 今日は一冊、本を持ってきました。青山学院宗教センター編の「地の塩、世の光~人物で語るキリスト教入門~」です。

 「地の塩、世の光」は青山学院のスクール・モットーでもあります。この本は青山学院大学の必修科目であるキリスト教概論のサブテキストです。この本には、「地の塩、世の光」として生きたアブラハムモーセパウロ、アシジのフランシスコ、ルター、ウェスレー、キング牧師マザーテレサ内村鑑三三浦綾子等の、イエス・キリストを救い主として信じた20名の人物史が記されています。この本の「序」の中にこうあります。
 『主イエスは、マタイによる福音書5章によると、弟子たちとその周囲に集まった群衆に向かって、「あなた方は地の塩である」また「あなた方は世の光である」と語りかけた。この象徴的な言い方は、塩が腐敗を防ぐ役割を果たし、料理の甘さでも辛さでもその味を引き立てる働きをすることから、主イエスに従っていく者たちがこの世の腐敗を防ぎ、人生の意味深さを証しする役割を果たすことを示している。また光は暗闇を照らし出し、人々の間に希望の灯火を掲げる存在になることを象徴している。しかも、「そのようになれ」と命令形で語るのではなく、イエス・キリストを中心に集まっている人々がそのような存在なのだ、と断言している。それは、神の愛と平和の支配を実現したイエス・キリストに招かれ、その影響力のもとに生きるなら、誰でも地の塩、世の光となるからである。』(P.5-6)
 ここでも、イエス様に招かれ従っていく私たちは、「地の塩・世の光」であることが宣言されています。

 皆さん、イエス様は、病気の人、障害のある人、貧しい人、苦しむ人、そういう小さくされた人たちに「あなた方は地の塩である」また「あなた方は世の光である」と語られました。
 私たちも、塩味を加え、この社会でイエス様から受けた光を輝かす「地の塩、世の光」であります。そして、イエス様こそ「世の光」です。私たち自身はイエス様の光を受けた「世の光」でありますので、その光を、日々の生活の中で輝かしていただけるよう、この礼拝で、また日々の祈りの中で、祈り求めて参りたいと思います。