マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第6主日 聖餐式 『主イエス様の与える平和』

 本日は復活節第6主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、使徒言行録14:8-18とヨハネによる福音書14:23-29。聖霊の働きや「キリストの平和」等について知り、主イエス様が与える平和が一人一人のうちに、人と人との間に、教会の中、世界の中に実現していくよう祈り求めました。神学塾で御指導いただいた速水敏彦先生による「弁護者」の解説や塩田泉神父が作詞作曲した聖歌「キリストの平和」にも言及しました。

   主イエス様の与える平和

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活節第6主日です。今年は復活日が4月17日でした。それから36日が過ぎ、今度の木曜が40日目で昇天日です。
 本日の福音書箇所は、先週に引き続き、イエス様が十字架にかかる直前に弟子たちに言い残した「告別説教」からです。ここでは、「父がイエスの名によって聖霊を遣わすこと」「世が与えられないイエスの平和を与えること」「父のもとに行くこと」等が語られています。
 今日の福音書箇所のキーセンテンスは次の3つだと思いました。23節と26節と27節です。一つずつ考えたいと思います。

  まず23節『イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。』です。この「私を愛する人」とは、その前の21節に「私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である」とありますので、イエス様の戒めを受け入れ守る人のことです。また、その戒めは先主日ヨハネによる福音書13:34の「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」であると言えます。この23節の言葉の後半「父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」が表しているのは、「神の国」であると考えられます。「神の国」というのはどこかに「ある場所」なのではなく、互いに愛し合う人の中に神とイエス様とが出かけて行き、そこに住んでくださって実現するのだと言っているのです。さらに、イエス様は、「私を愛する人は私の命令を守り、愛を実践する。私と父なる神はその人と共にいるのだからそうできる」とおっしゃっているように思います。

 次に26節「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」です。          
 ここの弁護者は、新共同訳でも「弁護者」となっていましたが、口語訳では「助け主」と訳されていました。英語の聖書では「Counselor」(NIV)や「Helper」(TEV)と訳されています。
 かつて教区の聖職養成神学塾で新約聖書を指導された速水敏彦先生の講義内容をまとめた「ヨハネ福音書略解」では、「弁護者」について、こう解説されています。

 『弁護者(ギリシャ語では「パラクレートス」)という語は、ヨハネ福音書以外では、Ⅰヨハネ2:1(そこでは、イエス・キリストを指す)だけに出てくる。ここでは、聖霊が「別のパラクレートス」と言われているゆえに、福音書でもイエスがパラクレートスとして考えられていたと言える。つまり、イエス聖霊は切り離して考えられないのである。パラクレートスとは、「傍らに呼ばれた者」の意味で、援助する者、特に裁判などで調停人、弁護人を指す語として使われていた。そこから広い意味での「助け主」(困難な時に慰め、励ます者、難解な教えを解釈する者など)、また、法廷や最後の審判での「弁護者」を指すようになった。』と。      
  聖霊は、一人では対応できず、様々な問題を解決できない人を助ける弁護士のような役割りをしてくださるのです。ですから、聖霊は、弱い弟子たちが、この世の現実に押し潰され、進むべき道さえも見失った時に、立ち上がらせて、彼らの進む道に新しい光を当てられたのです。 
 聖霊は今の私たちにも働いておられます。実際の場面で、聖霊は私たちにイエス様や御言葉を思い起こさせて、その場面での導きを与えてくださるのです。この聖霊を与えているのだから「心を騒がせるな。おびえるな。」とイエス様は私たちを励ましています。これは大きな福音(よい知らせ)であります。

  最後に27節「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」です。
 「平和」は私たちが毎回、礼拝の中で聞いている言葉ですが、イエス様は、ただ「平和」というのではなく、「私の平和」と言っています。その「平和」を、「世が与えるように与えるのではない」と言います。イエス様が言う「平和」とは何でしょうか? 普通の意味での平和ではないようです。この話をなさったときのイエス様の状況を考えると、普通の意味ではとても「平和」とは言えない場面です。最後の晩餐の時です。当時のユダヤ社会の指導者からイエス様は憎まれ、排斥され、命を狙われ、弟子の中からも裏切る者が出てくる。そして、晩餐の席を立ったあと、直ぐに逮捕され、裁判にかけられ、有罪とされ、苦しみを受け、処刑されていく、ということが待ち受けている場面です。それにもかかわらずイエス様は「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。」と約束されます。 
 このイエス様の「平和」とは何でしょうか? 
 ここで「平和」と訳されている原文のギリシャ語は「エイレーネー」で、「平和」のほか「平安」とも訳すことができる言葉です。「エイレーネー」は、ヘブライ語の「シャローム」のギリシャ語訳です。ユダヤ人が今日に至るまで挨拶の言葉として用いている「シャローム」は、単なる平和とか平安という意味だけでなく、神が私たちに与えようとしている祝福の総称です。ここでの「平和」も、キリストによって人間にもたらされる祝福や救いのことであると考えられます。この言葉の元々の意味は、「欠けたもののない状態」です。イエス様の心は欠けたもののない状態、神の愛に満たされていて、「心の平安」とでもいう「心が神様に満たされている」という状況が「私の平和」、つまり「イエス様の平和」「キリストの平和」と言えるのではないかと思います。
  「キリストの平和」は、私たちはが毎主日の礼拝の奉献の時に歌っている聖歌でもあります。聖歌第562番です。

 「♪~キリストの平和~が、わたしたちのこころの、すみずみにまで~、ゆきわたりますように~♪」(歌う) 
 その「すみずみまでゆきわたるキリストの平和」とは何でしょうか?
「キリストの平和」、キリストが私たちにくださる「平和」とは、キリストと共にいることから得られる平和であり、「神様が一緒にいてくださる」ことを実感する、そういう平和なのだと思います。クリスマスの頃に用いられる「インマヌエル」という言葉があります。「神は私たちと共におられる」という意味の言葉です。「神が共におられること」を実感し、その思いがすべての人の心にすみずみまでゆきわたることを私たちは願うものであります。
 「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。」
 イエス様は私たちにこう言っているのではないでしょうか? 「私はあなたと共にいる、いつまでもあなたと共にいる。苦しんだり、困難にぶつかったり、あるいは葛藤があるときも私はあなたと共にいる。あなたに力を与えよう。あなたに愛を注ごう。だから思い煩うな。私はあなたと共にいるのだから。」と。
 
 私たちはイエス様の道こそ、本当の平和への道であるということを信じています。それはもちろん、外面的な平和、安全とはほど遠い十字架の道でしたが、イエス様が神様によって満たされ、イエス様の心が何ものにも揺るがない平安に満たされていて、最後まで神様に信頼し人を愛して生きた、その道こそが本当の意味での平和への道である、と信じています。 

 皆さん、父なる神様は私たちに「弁護者(Counselor)」であり「助け主(Helper)」である聖霊を送り、イエス様や御言葉を思い起こすよう導いてくださっています。そして、イエス様は私たちに、「どのようなときも神が共におられる」という「キリストの平和」を与えておられます。父と子と聖霊が一つになって、この世に残された弟子たちに、そして今の時代を生きている私たちに、福音(よい知らせ)を伝えておられるのです。
  神様はいつも私たちと共にいてくださいます。この礼拝の中で、平和の挨拶を交わしながら、私たち一人一人のうちに、主イエス様が与える平和が実現していきますように、人と人との間に、教会の中にこの平和が実現していきますように。さらに、この社会の中に、世界の中に「キリストの平和」が実現していきますように、心を合わせて祈り求めたいと思います。