マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第4主日 聖餐式 『預言者の使命と苦悩』

 本日は顕現後第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課エレミヤ書1:4-10 とルカによる福音書4:21-32。
 説教では、聖書の言葉を受けとめる者は、古い見方や在り方から抜け出て、イエス様と共に新しい世界へと出ていくことができることを知り、自分自身を振り返り、日々の信仰生活を送ることができるよう祈り求めました。また、システィーナ礼拝堂天井画のミケランジェロが描くエレミヤの表情から「預言者の使命と苦悩」を示しました。

   『預言者の使命と苦悩』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第4主日です。福音書は、ルカによる福音書の第4章21節以下で、イエス様が故郷の人たちの不信仰な言動により、預言者は故郷では歓迎されないという預言者の定め等を述べる箇所です。旧約聖書は、この福音書箇所に関連して、生まれる前から預言者として立てられたエレミヤが、主の言葉をいかなる困難な時、苦境の時にも語らなければならないというう召命の記事が選択されています。

 さて、今日の福音書の冒頭の21節は先主日福音書のいちばん最後にあったものです。先主日はイエス様の言葉が「今、今日ここで実現している」という喜びにあふれていたのですが、今日の場面ではそのイエス様の発言に対しての、人々の別の反応が記されています。

 今日の福音書を振り返ってみましょう。
 イエス様によって語られる最初の言葉、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(21節)という言葉に驚いた人の中に、次のような発言をする人がおりました。
「この人はヨセフの子ではないか。」(22節)
 先週の福音書にはこの出来事が起こった場所は、イエス様がお育ちになったナザレであったと書かれていました。だとすると「あのヨセフの息子」だったら、小さい頃からよく知っている。ヨセフの息子のイエスがこんなに人の心を動かすようなことを言いだすなど、何かの間違いではないのか、という故郷の人々の反応にはマイナスの意味での驚きがあったのでした。
 その反応を感じ取ったイエス様は、「カファルナウムはじめ、あちらこちらでしてきたことを、ここでもしてくれ」と言うに違いないと言葉を返し、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)と語ります。そしてさらに続けて、旧約聖書に登場する預言者エリヤとエリシャの名前を挙げ、エリヤもエリシャもイスラエルの民に対しては何も奇跡のようなわざを行わなかった、という事実を語ります。これは「だから私も、あなたがたの前では不思議なわざも恵みのわざも行わない」ということです。これを聞いた故郷の人たちは、神の恵みはイスラエルの民という「選ばれた人たち」だけに与えられる特権だと思っていましたから、28-29節にありますように、
「皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとし」ました。
 イエス様は、人々の間を通り抜け立ち去り、別の町に行き福音を語り、人々はその教えに驚きました。

 この箇所では、イエス様の使命が示されているように思います。イエス様が引用したエリヤとエリシャはともに紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動した預言者です。この話は、それぞれ列王記上17章、列王記下5章に伝えられています。「シドン」「サレプタ」はイスラエルの北方、地中海に面した位置にあります。「シリア」はイスラエルの北にある国ですが、その国のアラム人の王の軍司令官がナアマンで、「規定の病」は新共同訳では「重い皮膚病」と訳されていました。ともにイスラエルの民(ユダヤ人)でない人々、つまり異邦人に神の救いがもたらされたのです。それと同じように、イエス様も異邦人に神の救いをもたらすということを示しているのだと思います。そして、それこそがイエス様の神様から託された使命なのだと思うのであります。

 預言者が身近な人々に理解されないという点では、本日の旧約聖書で読んでいただいたエレミヤも同様です。エレミヤは、南ユダ王国のヨシア王の治世13年目(紀元前627 年頃)に預言者となる召命を受けました。この絵をご覧ください。

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 これはバチカンシスティーナ礼拝堂天井画のエレミヤの絵で、今日のエレミヤ書の箇所を描いています。エレミヤは、人々に神様に聴き従うように訴えた預言者です。この1章5節で神様はエレミヤに「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。諸国民の預言者としたのだ。」と言います。それに対してエレミヤは「ああ、わが主なる神よ 私はまだ若く どう語ればよいのか分かりません。」と言って、同胞であるユダヤ人に「どう語るか」という悩みを語っています。このミケランジェロが描くエレミヤは下を向き、目を閉じ、憂いに満ちています。この表情は「預言者の使命と苦悩」でもいうべきものだと思います。それはイエス様の今日の心情も同様と思います。神様から「異邦人に救いをもたらす」という使命を与えられ、それを実行しようとするイエス様に故郷の人々は反発したのです。イエス様の心情はいかばかりだったでしょうか?

 皆さん、イエス様は「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」と会衆に語り、イエス様の言葉に憤慨した人々は、イエス様を崖から突き落とそうとしました。私たちはどうでしょうか? 長い信仰生活の中で、長年、慣れ親しんでいるために、いつの間にか、私たちの「心」が、イエス様の故郷ナザレの人々のような状態になっていないでしょうか?

 イエス様に対して、ナザレの人々が、「この人はヨセフの子ではないか」と言ったように、また、「神の恵みはイスラエルの民だけに与えられる」と思うように、私たちが自分たちのこれまでの見方や在り方に固執するなら、イエス様は私たちの間を素通りして去っていってしまいます。聖書の言葉、神様の言葉を受けとめ、それに自らを合わせていく者は、古い見方や在り方から抜け出て、イエス様と共に新しい世界へと出ていくことができるのです。
 「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」と言われた言葉をおぼえて、自分自身の見方、在り方を振り返り、日々の信仰生活を送ることができるよう祈り求めたいと思います。