マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎始日(灰の水曜日) 礼拝 『隠れた神と心を合わせる』

 本日は大斎始日大斎です。前橋の教会で「灰の水曜日」の礼拝を捧げました。聖書日課はコリントの信徒への手紙二5:20b-6:10とマタイによる福音書6:1-6、16-21。
 説教では、大斎始日に灰の十字架のしるしを額にし、大斎節に善行と祈りと断食をする意味を知り、隠れた神と心を合わせ、大斎節をみ心にかなうように過ごすことができるよう祈り求めました。
 嘆願に続いて、前年の棕櫚の主日(復活前主日)に渡された棕櫚を燃やした灰で一人一人の額に十字架のしるしを刻みました。

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 『隠れた神と心を合わせる』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎始日です。大斎節の始まりの日です。コロナウイルスの収束が見えない中、ウクライナで戦争が起こり、世界の平和が脅かされています。そのような状況の中で、大斎節を迎えました。、本日は特祷の後でカンタベリー大主教とヨーク大主教と連名で作成された「ウクライナのための祈り」を捧げました。
 大斎始日は「灰の水曜日」とも言われる祝日・斎日です。年間で2つある断食日(もう1つは受苦日)です。古くは大斎節の始まる日、信徒は罪を悔いたしるしとして粗布をまとい、灰をかぶる習慣がありました。それが「灰の」水曜日の由来です。
 
  この礼拝式文の最初の「勧め」にもありますように、初代教会では、この期間はその年の復活日に洗礼を受ける人や教会の交わりに回復される予定の人々によって守られてきました。そして、森紀旦(としあき)主教が書かれた「主日の御言葉(P.108)」によりますと、「8世紀から10世紀にかけてこの40日間を、洗礼志願者のみでなく全会衆が大斎節として守ることとなり、悲しみと悔い改めを表すため、始めの日に、前年の棕櫚の主日(復活前主日)に渡された棕櫚を燃やした灰を、聖職と信徒の額に付ける習慣ができた」ようです。
 この礼拝式文の「勧め」の最後には「一人びとりの内なる生活を顧みて悔い改め、祈りと断食に励み、自己本位な生き方から解かれて愛の業を行い、また神の聖なるみ言葉を熟読し、黙想することによって、この大斎節を忠実に守ることができますように」とあります。「悔い改め」「祈りと断食」「自己本位な生き方からの解放」「愛の業」「み言葉の熟読と黙想」。これらに努めるということは何も大斎節に限ったことではなく、一年を通しての信仰者の在り方ですが、大斎節にそのような基本をしっかりと作っておくことにより一年の信仰生活をつつがなく送ることができると言えます。

 本日の聖書箇所の使徒書は、コリントの信徒への手紙二の5章20節以下で「神の和解を受け入れる」ことを求めています。 
 また、先ほどお読みしました福音書は、マタイによる福音書の6章からで、「善行、施し、祈り、断食は父なる神にのみ知られるように」との箇所です。
 
 今日の使徒書のコリントの信徒への手紙二の5章20節の「神の和解を受け入れなさい」ということについては、こう言えます。  
 私たちは主イエス・キリストによって贖いの恵みを受けています。神の和解は、自分の力、自分の行いによってはできません。ただ主キリストに心を開き、イエス様を通して与えられる神のいつくしみを受けることによってのみ、和解を受け入れることができるのです。 

 福音書はマタイによる福音書6章1節以下で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」というイエス様の教えです。イエス様は、人の「偽善」を咎(とが)めています。3節で「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とイエス様は教えています。  
 ここでは、当時のユダヤ人にとって宗教的な3つの行い、施しと祈りと断食が大事であることが述べられていますが、大斎節の始まりにあたってこのことを意識することは大切であると思います。イエス様はこの3つをする時に、「隠れて行いなさい」とおっしゃっています。施しも祈りも断食も、「隠れてしなさい」とイエス様は強くおっしゃっておられるのです。
 なぜ、隠れてしなければならないのでしょうか? それは、神様自身の働きが隠れておられるからと言えます。神様も私たちのために働いておられ、神様も私たちのために祈っておられ、私たちのために犠牲をささげられたのです。神様自身がそれらを隠れた形で行われた。だから私たちもその神様に倣って、隠れて施しや祈りや断食をするということです。私たちが隠れている神様の心に合わせて、施しや祈りや断食をする。つまり、神様と心を合わせて行うことに意味があると言えます。それこそが、「宝を天に積むこと」になるのだと考えます。

 ところで、本日の礼拝では、この後の嘆願に続いて、一人一人の額に棕櫚を燃やした灰で十字架のしるしを刻みます。
 どうして額に灰の十字架のしるしをするのでしょうか? 十字架のしるしをするときの言葉はこうです。
「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい」
 この前半の「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。」は、「エデンの園の木の果実」を取って食べたアダムとエバに言われた神様のみ言葉(創世記3:19)です。アダムとエバが「エデンの木の果実」を取って食べたことは蛇の誘惑のせいでした。しかしこの蛇の誘惑は人間の欲望を引き出しています。すなわち、人間が自分の欲望を満たすために神様のみ言葉に背いたのです。私たちもこのアダムとエバの遺伝子を受け継いでいます。私たちはちりにすぎないのです。そして、私たちはみな、どんなに長生きしようとも、いつかは必ずちりに帰らなければなりません。この世の命は有限であること、そして自分が死せる存在であることを直視することが、神様と向き合うための始めの一歩です。「私たちはちりにすぎず、必ずちりに帰らなければならない存在である。だからこそ神に立ち帰り、キリストに従うことが大切なのである。」このことを体に、心に刻むために額に灰の十字架のしるしをするのだと考えます。  
 
 皆さん、イエス様は「善行と祈りと断食を形式的にしてはいけない、他人に見せるためにしてはいけない」と命じておられます。私たちキリスト者・信仰者の人生は他人に見せるためにあるのではありません。信仰者の人生は、「真理の言葉、神の力によって」(Ⅱコリント6:7)生きていく人生です。そして、私たちが善行と祈りと断食などの行いを、隠れた神様と心を合わせてすることに本当の意味があるのです。
 本日の代祷で、ウクライナの平和やコロナウイルスの収束についても祈りますが、一人一人の個人的な思いと共に世界の平和についても神様による和解を求めながら、隠れた神様と心を合わせて、善行と祈りと断食などをこの40日間(正確には主日を含めた46日間)、行っていけるといいと思います。
 この大斎節を神様のみ心にかなうように過ごしていくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。