マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖金曜日(受苦日)礼拝 『エッケ・ホモ(この人を見よ)』

 本日は聖金曜日(受苦日)です。午後2時から前橋の教会で主の十字架を記念する礼拝を捧げました。
 聖書箇所はヘブライ人への手紙10:1-25と7ヨハネによる福音書18:1-19:37。説教では、イエス様を見つめ、自分にとって何が真実か、イエス様の示す真理は何なのか思い巡らす中で「神は愛である」ことを実感できるよう神様の導きを祈り求めました。ボスの絵画「エッケ・ホモ」や聖歌357番「この人を見よ」も活用しました。

         『エッケ・ホモ(この人を見よ)』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私たちは今、聖金曜日の、イエス様の受難の礼拝を行っています。本日の福音書箇所はヨハネ福音書のイエス様の十字架の箇所で、かなり長い朗読がありました。

 ここでは、イエス様は総督官邸に連れて行かれ、ピラトとイエス様が、長々と対話しています。今回私がこの箇所でまず注目したのは、ピラトの次の言葉です。18章38節です。『ピラトは言った。「真理とは何か」。』
 ピラトはイエス様にこう尋ねました。ローマ帝国ユダヤの総督である権力者、ピラトも真理を探し求める人であったのです。この「真理」は原語のギリシャ語では「アレセイア」と言い、英語の聖書ではtruthとありました。真実とも訳せます。ギリシャ語の辞書には両方ありました。言い換えれば、本当のもの、あるいは最も大切なもの、ということだと思います。「真理、あるいは真実とは何か」とピラトが尋ねて、この対話が打ち切られます。結局、ピラトにとって、本当に大切なものは何なのか、分からないままでした。それは私たちも思い巡らすべきテーマだと思います。自分にとって真実とは一体何なのか、別の言葉で言えば、自分にとって大切なものは一体何なのか、ということでもあります。
 ピラトにとって、それは権力でした。ですから、イエス様に向かって「王なのか?」と聞いています。「お前はユダヤ人の王なのか」と。18章33節です。ピラトは非常に残忍な人で、結局は失脚しますが、あまりに残酷で、次々と人を殺しても平気だったと言われます。しかし、ここに出て来るのは弱気なピラト、ここでのピラトはイエス様の味方で、「イエス様を救いたい」と願っているようにさえ感じます。ピラトはイエス様を釈放したいと思ったようです。それで、紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせて、この姿を皆の前に見せたら、もう、皆許してくれるだろうと考えたのかもしれません。19章5節にこうあります。
『イエスは茨の冠をかぶり、紫の衣を着て、出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。』

 ピラトはイエス様を人々の前に連れていって、「見よ、この男だ」と言いました。
 ラテン語では「エッケ・ホモ」と言います。「見よ、これが人間だ」「この人を見よ」とも訳せます。次に注目したい言葉がこれです。
  「エッケ・ホモ」という言葉で思い浮かぶ絵画があります。それがこのヒエロニムス・ボスの「エッケ・ホモ(この人を見よ)」です。

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 この絵では画面を左右に大きく分け、左上に群衆の前に引き出されたイエス様、右下に死刑を求める群衆を描いています。イエス様はむち打たれ、全身に傷を負って血を流し、腰をかがめ立っているのもやっとの様子です。壇上のピラトは「エッケ・ホモ(この人を見よ)」と述べ、それに応える群衆は憎しみに満ちた眼差しでイエス様を見上げ「十字架につけろ」と叫んでいます。ピラトと群衆の言葉がそれぞれ金の文字で記されています。祭司長たちにそそのかされ死罪を要求する群衆。五日前には、イエス様のエルサレム入城を枝を敷いて歓迎したのに、こうも簡単に変わってしまう群集心理の恐ろしさを感じます。

 「この人を見よ」は聖歌にもありますね。それが先ほど歌った聖歌357番です。聖歌集をお開きください。
 1節の歌詞はこうです。
「1 まぶねの中に産声あげ たくみの家に人となりて 
   貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」 
 2節・3節も見て参りましょう。
「2 食する暇も うち忘れて 虐げられし 人を訪ね 
   友なきものの 友となりて 心砕きし この人を見よ 
 3 すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも 報いられで 
   十字架の上に あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」
 この聖歌はイエス様の生涯が歌われ、4節までありますが、各節の最後がどれも「この人を見よ」となっています。特に3節が今日の箇所を表しています。 
 ピラトは「この人を見よ」「見よ、この男だ」と言いますが、人々の「十字架につけろ」という声に圧倒され、結局、イエス様を釈放できませんでした。ここではピラトは証人のようです、「見よ、この人を」と。途中から証人のようになってきて「見よ、あなたがたの王だ」と、逆にこの人が王だと言っています。19章14節です。ピラトがそう告白しても、「十字架につけろ」という声に、ピラトは恐れおののいてしまいます。

 「見よ、この人を」(エッケ・ホモ)ということを、私たちも日々の生活や祈りの中で行うことが求められていると思います。十字架につけられたイエス様を見つめて、そこに何を見い出すかということです。皆さんは十字架のイエス様の姿に、どのような真実、真理を見い出されますか? 

 イエス様は言います。18章37節の後半です。「私は、真理について証しするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」と。声だけではなくてイエス様の姿を見る、ということも含めているのでしょうが、何が自分にとって真実であるか、イエス様は何の真理を証ししたのか、それを知るためにはイエス様の声を聞き、姿を見ることが肝要であるということだと思います。つまり、イエス様の姿にどういう真実を見い出すのか、イエス様の十字架、復活、あるいはその言葉や行動に、どういう真理を見い出していくのかということです。
 最終的にイエス様が証しした真理は、ヨハネによる福音書の始めから最後まで、そして旧新約聖書の始めから最後までに記されているように「神は愛である」ということだと思います。私たちは「神は愛である」ことをご自身の生き方で示したイエス様をよくよく見つめることが求められていると考えます。

 結局、ピラトはイエス様を十字架につけます。罪状書きには、「ナザレのイエスユダヤ人の王」とありました。イエス様は王として、ナザレの人ですが王として宣言されて十字架上で亡くなります。しかも、ヘブライ語ラテン語ギリシア語で、その時の世界の共通語全部で書いてあったのです。つまり、全人類に向かってそれが宣言され、イエス様が全人類の救い主であることを指し示していると考えられます。
 イエス様を、十字架上のイエス様を私たちを王として、私たちのメシア、救い主として、この世を治めている者としてイエス様を見つめていくことができるかどうか。そこに、私たちの生きていく真実を見い出していけるかどうか。それを日々の生活や祈りの中で振り返りたいと思います。自分の真実は何なのか、そして、イエス様の示す真理は何なのかを、祈りの中で十字架上のイエス様をよく見つめながら、そのようなことを今日の聖金曜日(受苦日)に思い巡らし、深めたいと思います。

 ちなみにギリシャ語で「テオリア」という言葉があり、それは「祈り」の体験の深みを表現した言葉で、日本語ではこれを「見神、神を見る」と訳しています。しかし、「テオリア」は直訳すれば「神の眼差し」であり、それは「神の眼差しの中に私たちが見出されること」です。言い換えれば「神様に見つめていただくこと」と言えます。私たちが聖堂内で祈るとき十字架のイエス様を見つめますが、実は「イエス様に見つめられている」のだとも言えます。そして、それは「神様に見守られている」ということであります。

 皆さん、イエス様は私たちを救うために十字架上で死を遂げられました。そのイエス様を見つめ、自分にとって何が真実で何を大切にしているか、イエス様の示す真理は何なのか思い巡らし、その中で「神は愛である」ことを私たちが実感できるよう神様の導きを祈りたいと思います。

 最後に、先ほど触れた聖歌357番「この人を見よ」の4節をお読みします。
 4 この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
   この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ
 私たちは、このように真理を証しするイエス様をよくよく見つめ、「神は愛である」ことを実感し、人となった生ける神であるイエス様を心から賛美する者でありますよう祈り求めたいと思います。
 しばらく黙想いたしましょう。