マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第6主日 聖餐式 『貧しい人々は幸い』

 本日は顕現後第6主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました(前橋は「み言葉の礼拝」)。聖書日課エレミヤ書17:5-10とルカによる福音書6:17-26。礼拝後は、堅信受領者総会が開催されました。

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 礼拝の説教では、 神様に信頼してイエス様を求めることによって貧しい人々が幸いとなることを知り、イエス様に従い神様とつながって生きることができるよう祈り求めました。

   『貧しい人々は幸い』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第6主日です。福音書箇所はルカの6章17節から26節です。4つの幸いと4つの災い(以前の訳は「不幸」)をイエス様が述べている箇所です。
 ここでイエス様が語られている教えは、マタイによる福音書5章~7章に記されている有名な「山上の説教」と呼ばれる教えに似ています。ルカによる福音書の方がマタイの「山上の説教」に比べると全体的に短く省略された印象があります。また、この教えをイエス様が話された場所が違っています。マタイによる福音書の方は山の上で語られました。一方ルカによる福音書の方は17節に書かれていますように、山から降りて平地での出来事として書かれています。そこで「平地の説教」と呼ばれます。 
 これはどちらが正しいのか、と考える必要はなく、どちらもその通りだと考えるべきと思います。イエス様は3年間に渡ってこの世界で神の国の教えを宣べ伝えられましたので、同じような教えを何度も人々にお話しになったと考えられます。ですからマタイもルカも、それぞれ違った時にイエス様がお話しになったことを記録していると言えるのではないかと思います。 
 その「平地の説教」の冒頭でイエス様は「貧しい人々は幸いである」とおっしゃっています。 
 この言葉は、私たちをたいへん困惑させます。なぜなら、「貧しい」ということが普通は「幸い」には思えないからです。貧しいことは災い、または不幸なことと私たちは思うではないでしょうか? 本日は「貧しい人々は幸いである」というこの言葉の真意について考えたいと思います。
 
 以前にもお話ししましたが、「貧しい人々」はギリシャ語では「プトーコイ」で、これは「プトーコス」という言葉の複数形です。この言葉は単に経済的に苦しい人というのでなく「ひたすら神に信頼して生きていこうとする人」のことです。その人々こそ幸いであると、イエス様はおっしゃっているのです。
 20節を見てみます。そこには「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」と書かれています。イエス様は弟子たちを見て言われたのです。ここの「弟子たち」というのは、12弟子だけではなく、イエス様に従っていた人々のことです。そして「貧しい人々は幸いである」と続きますが、この言葉は以前の口語訳聖書では「あなたがた貧しい人たちは幸いだ」となっていました。原文のギリシャ語でも「あなたがた」という言葉が入っています。そうするとこの「貧しい人々」というのは、貧しい人々一般を指しているのではなく、今イエス様を求めて集まってきている貧しい人々、ということになります。あるいは、貧しい人々が幸いなのは、イエス様を求めるようになるからだ、と言うこともできます。いずれにしても、イエス様を求め、イエス様の所に来ることによって、貧しい人が幸いな人となるということです。 
 そしてなぜそのように幸いになるかと言えば、「貧しい人々は幸いである」の続きに述べられています。「神の国はあなたがたのものである」と。ギリシャ語原文ではこの2つの文の間に「なぜなら~だから」という意味の接続詞が入っています。イエス様は、「神の国が、その人たちのものであるがゆえに、貧しい人々は幸いである」とおっしゃっているのです。これは祝福の言葉です。神様の祝福です。神様のくださるものによって祝福される。神の国が与えられる。神の国とは「神様が王として恵みと力を持って支配されること」です。それが実現される。それゆえに幸いであるとおっしゃっているのです。 
 次の「今飢えている人々」についても同じです。ここでは「あなたがたは満たされる」と言われています。これも、この世の物で満たされる、おいしい物を腹一杯食べられるようになるのだと解釈することもできますが、神様の恵みで満たされる、と考えることもできます。その次の「今泣いている人々は、幸いである」についても、「あなたがたは笑うようになる」ということが、何か「苦あれば楽あり」という人生訓としておっしゃったのではなく、神様の慰めが与えられて笑うようになる、ということです。 
 ですから、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々は、もちろんそのままでは幸いではありませんが、イエス様によって幸いへと変えられる。イエス様を求めることによって幸いとなる、神の祝福があるということです。 
 
 なお、本日の福音書の中心聖句「貧しい人々は、幸いである 神の国はあなたがたのものである。」は、原文のギリシャ語では、「幸いだ」という形容詞が最初に来ています。日本語と語順が違うので仕方がないのですが、日本語の聖書では昔の文語訳聖書がそれに近い表現となっています。‥‥「幸福(さいわい)なるかな、貧しき者よ、神の國は汝らのものなり」です。英語の聖書(RSV)では、“Blessed are you poor, for yours is the kingdom of God.”(あなたがた貧しい人々は祝福されよ。神の国はあなたがたのものだから)とありました。
 本日の旧約聖書エレミヤ書17章でも、7節に「祝福されよ、主に信頼する人は。 主がその人のよりどころとなられる。」とありますように、神様にひたすら信頼する人が祝福されるのです。 

 皆さん、「さいわいなるかな!」とイエス様は、大きく祝福されています。貧しい者が幸いだ、「貧しい人々は、幸いである」と言えるのは、貧しいがゆえに、神様にひたすら信頼し、イエス様を求め神様とつながるから幸いなのです。そして、イエス様が祝福して下さるから幸いなのです。 
 「貧しい人々は幸いである」と言われたイエス様の心を受け止め、私たちも、ひたすら神様に信頼し、イエス様を求め、心からイエス様を信じ、神様とつながり、生きていくことができるよう、祈り求めたいと思います。