本日は復活前主日(しゅろの主日)です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
聖書日課はフィリピの信徒への手紙2:5-11 とルカによる福音書23:1-49。説教では、「御手に委ねる信仰」こそ私たちがキリスト・イエスに向かう姿勢であることを学び、そのことをもって、次主日の復活日を迎えることができるよう祈りました。
この箇所で思い浮かべるマンテーニャの絵画《キリストの磔刑》も活用しました。
『御手に委ねる信仰』
<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は、復活前主日です。復活日(イースター)の一週間前の日曜です。今日から一週間が聖週Holy weekです。先ほど礼拝の冒頭に、聖堂内の聖画により「十字架の道行きの祈り」を捧げることができ、感謝いたします。
復活前主日はしゅろの主日(Palm Sunday)とも言われます。今日の祭壇にもしゅろが飾られていますね。イエス様がエルサレム入城の時に、群衆がしゅろを持ち、その枝を道に敷いて歓迎した日を記念しています。カトリック教会では「枝の主日」とか「受難の主日」と言われています。
本日の福音書箇所はルカによる福音書23章1節-49節です。聖金曜日(受苦日)の早朝から午後3時頃までのことであり、ピラトやヘロデから尋問を受け、死刑の判決を下され、十字架上で息を引き取るイエス様の姿を記しています。先ほどの「十字架の道行き」の第1留から第12留までの箇所に当たります。本日は、特にイエス様が犯罪人の一人に語った「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)の御言葉を中心に学びたいと思います。
イエス様の十字架が2人の犯罪人の間に立てられたことをマタイも、マルコも伝えています。しかし十字架の上での3人の会話を伝えているのはルカだけです。ここの聖書の言葉をもう一度お読みします。39節から43節です。
<はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。>
私がこの箇所で思い浮かべるのはこの絵、ルーブル美術館にあるマンテーニャの《キリストの磔刑》です。
この絵では「ゴルゴタ(されこうべ)の丘」ではりつけにされたイエス様が描かれています。皆さんから見てイエス様の十字架の右側には、「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」と罵った犯罪人、左側には、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った犯罪人が描かれています。右側の犯罪人は暗く、左側の犯罪人は明るい色をしています。
ここで「犯罪人」と言われている二人について、マルコとマタイは「二人の強盗」(マルコ15:27、マタイ27:38)と記しています。彼らも十字架の周りでイエス様を罵っている人々や議員や兵士たちと同じ立場に立っていました。イエス様は彼らすべての人たちのために父なる神に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(34節)と祈りました。その中でイエス様の左側の犯罪人だけが「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言いました。イエス様の祈りの言葉に反応したのは彼だけでした。彼だけが十字架刑を当然のこととして受け止め、悔い改め、イエス様の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という祈りに「アーメン」と答え、彼だけが「思い出してください」と祈ったのです。
人生の最後における彼の祈りはただ「御国においでになるときには、私を思い出してください」ということでした。御国とは、英語ではYour kingdom、「あなたの王国」であり、この「国」はギリシャ語で「バシレイア」、神様の統治を意味します。ですから、御国とは神様が統治する場所です。神様の統治する御国に行ったら「私を思い出してください」と言うのです。この一人の犯罪人にとって、自分の人生を振り返るとき、この人と共に死ねるということこそ最大の幸運でした。その最期の瞬間に「私を思い出しほしい」というのが彼のささやかな願いであったのです。
その祈りに対してイエス様は「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われたのです。イエス様はここで「楽園」という言葉を使っています。「楽園」とはギリシャ語では「パラデイソス」、英語で「パラダイス」と言う言葉です。この言葉はもともと「囲いのある庭」を意味する言葉で「神の庭」を意味するそうです。口語訳聖書ではそのまま「パラダイス」と訳されていました。「楽園」となったのは、創世記のアダムとエバのエデンの園を70人訳聖書(ギリシャ語訳)でこれを表すのに「パラデイソス」の言葉を使ったからのようです。
ここでのイエス様の言葉では「パラダイス」という言葉と共に「一緒に」という言葉も重要であると考えます。「私と一緒に」つまり、「イエス様とともに」とは、イエス様の「弟子、同労者、仲間」であることを意味します。
イエス様はこの一人の犯罪人に言います。「あなたは今、私と一緒に十字架の上にいる」。そして「今、まさに一緒に」死のうとしている。これから後も、私たちはずっと「一緒にいる」。それが「パラダイス」という言葉の意味です。「イエス様と一緒にいる」ということがパラダイスであるのです。
そして、旧約聖書の時から、楽園、パラダイスとは「神の祝福と喜びにあずかる場所」です。このイエス様の「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という御言葉は、「あなたは今日、神の祝福、救いにあずかる」ということだと言えます。
私たちはイエス様の十字架の両脇の二人の犯罪人のどちらにもなれます。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」とイエス様を罵る人になるか、あるいは「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と謙遜に言う人になるか、です。
私たちの基本姿勢はどうあったらいいのでしょうか?
イエス様の十字架上での最後の言葉がそれを示しているように思います。46節です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
「父よ、私の霊を御手に委ねます。」という言葉の背景には詩編31編6節があり、午後3時はユダヤ人の夕方の祈りの時間であり、引用されているこの詩編は、その祈りの言葉であると言われます。「霊」と訳されたギリシャ語は「プネウマ」で、この言葉は「風」とか「息」とも訳される言葉です。神が人の鼻に命の息を吹き入れたとき人は生きる者となったように、「プネウマ」は人間の生きる力の源泉でり「全存在」とも言える言葉です。自分の「全存在」である霊を父なる神に委ねるイエス様の従順な信仰こそ、私たちが持つべき基本姿勢ではないでしょうか?
皆さん、十字架上のイエス様の隣りにいて「御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言ったこの一人の犯罪人の姿に、私たちはキリスト・イエスに向かう謙遜の姿勢を学びたいと思います。
復活前主日である本日、私たちは心から悔い改めて、イエス様に寄り頼み、「父よ、私の霊を御手に委ねます。」という自分の全存在を神様の御手に委ねる信仰をもって、復活日(イースター)への心構えを整えたいと願います。そして、そうできるよう、この礼拝の中で祈って参りたいと思います。